「真実が入っていない空っぽの器」三度目の殺人 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
真実が入っていない空っぽの器
三度目の殺人
2017年公開
タイトルは「三度目の殺人」
ならば、最初の殺人は、昭和61年1986年の北海道留萌での二人が殺害された強盗放火殺人事件のことです
犯人は死刑を免れている
判決を下したのは主人公の父
今では死刑判決を下さなかったことを後悔しています
二度目の殺人事件は、劇中の現在公判中の殺人事件のこと
川崎の食品加工会社社長強盗殺人遺体損壊事件
冒頭にその殺害シーンがあります
被告は最初の殺人事件と同じ三隅
劇中では、はっきりとは示されませんが、公判中の裁判で死刑を求刑されるようです
主人公の弁護士重盛は死刑判決から無期へ減刑を勝ち取ろうと、様々な法廷戦術を弄そうとしています
では、三度目の殺人とは?
もちろん、この裁判で、ラスト10分で下される死刑判決のことです
つまり、死刑とは社会による殺人だという本作の主張がタイトルで容易に読み取れるようにできています
すなわち本作は人が人を死を選別する死刑制度を批判する作品です
それ故に、人が人を裁き生命を奪うことが果たして正しいことなのか、理不尽なことではないのか、それを観客に考えさせるように、物語も、演出も考え抜かれて構成されています
だから、主人公の弁護士初め、この裁判に関わる法曹界の人物は皆、事務的に、人の生死に関わる重大性を少しも感じていないかのように描かれます
「罪と向かいあうとは、真実から目をそむけないことです」そう真面目そうな女性検事の発言に主人公の弁護士達は冷笑するのです
市川実日子にピッタリの役でした
いま、こういう役なら右にでる人はいません
被告人は言を左右して何が本当なのか分からなくします
役所広司の巧みな演技がそれを増幅させます
弁護士役の福山雅治はいつもの自信満々な姿ではなく、個人的な悩み事を抱えて、不安そうです
本作は、この被告人が本当に殺人事件の犯人なのか?動機は何なのか?
真相はなんなのか?
そんな事はどうでもよいのです
人は神ではないのだから、絶対に正しい事などわからないのです
しかし、それでも死刑制度は日本に存在していて、死刑判決を受けた受刑者はある日国家によって殺人されるのだ!と、それを大声で主張している映画です
その上で、この主張に賛同するのか、それでもまだ別の意見を持つのか、それは私達観客のそれぞれが本作を見た上でどう考えるのか、よく考えてみて欲しいということです
ラスト10分の面会で三隅と重盛とで交わされる会話から恐らく真実と思われることがようやくわかります
被害者の娘咲江の為に彼女の父に裁きを与えた
その真相が明らかになれば彼女が法廷で晒し者になる、それを回避しょうとして一転して殺害自体を否認したということでしょう
保険金殺人というのも、見て見ぬふりをした咲江の母親への裁きであったのでしょう
重盛が真実にほぼたどり着いた事を知り、三隅は突如として全面否認に転じます
ガラスの反射による三隅の顔が二重にみえる映像は、人間の心の多重性を表現力していたと思います
咲江が立ちよるパン屋のシーン
丸十ベーカリーの看板が目立っていました
丸は○、十はXです
監督からのヒントだったと思います
慌てふためく弁護士陣
真実の隠蔽をはかり、咲江の証言の口封じすら行うのです
つい先日
死刑執行のニュースを見ました
三度どころか数度目の殺人だったようです
本作では、判事も、検事も弁護士も、誰も真実を知ることがないまま、死刑判決がくだされました
まさに空っぽの器です
本当のことで、人の命を裁いたのは実は三隅だけだったのです
この死刑囚はどうであったのでしょうか?
真実に目を向けていない判決なら、罪と向かいあうこともまたできないまま死刑にするということではないでしょうか?
人の命を弄ぶのに理不尽なことです

 
  
 
 