「話す相手がそうだと思いたい犯人像に変わる男」三度目の殺人 夢見る電気羊さんの映画レビュー(感想・評価)
話す相手がそうだと思いたい犯人像に変わる男
話す相手によってコロコロと言うことが変わる容疑者と、それに関わるベテラン弁護士たちをめぐる物語。そして最後に驚くべきことが分かる。
本作は、普通のミステリーや、社会派ミステリーのように一種の腑に落ちた気持ちの良い展開にはならない。謎は謎のまま、何が正しくて、誰が嘘をついているのか全くわからないまま、展開する。しかし、主人公はある結論に至る。こいつは、単なる器ではないのか。つまり、証言や態度がコロコロ変わるのは、話している相手が容疑者像として一番望む形を映し出しているだけで、容疑者の中には何もないのではないか、というもの。警官に対しては非道な犯人、週刊誌記者には実は犯人は別にいたというセンセーショナルな話を、正義感の強い若手弁護士には正論を気持ちよく吐ける分かりやすい怨恨殺人者を、同じ境遇でもある主人公には無実の容疑者に、コロコロ変わっているだけなのだ。要は、器というのは、相手が見たいものを受け止めるだけの存在、という意味だ。
自分も社会派ミステリーのように、過去に何があり、どういう原因でそうなったのか、という真実がどんでん返すことを期待して犯人像を作っていたが、それを逆手に取られ、お前がそう思いたいだけだろと、言われた気がした。奇々怪界な映画だが、非常にぞくっとするお話でもあった。
主人公と容疑者がガラス越しに重なって見えるのは、主人公が容疑者と自分を同一視しているから、いつのまにか容疑者の境遇と自分の境遇を重ねており、境界が曖昧になっていることを表す。最後に、器だと気付いてからは、その重なりが遠のくので、こいつは俺ではない、俺がそうであって欲しいと思っただけの虚像だと気づくシーンにもなる。
見た後にこの感想を見て、しっくり来ました。ラストのガラス越しの対話で、ガラスに重なる二人の顔のシーンにおいて、主人公の弁護士(福山)の顔が遠のくところが、犯人の供述は自分の気持ちの投影でしかなかったことに気付いた瞬間なんですね。