アメイジング・ジャーニー 神の小屋よりのレビュー・感想・評価
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赦すということ
突然、末娘ミッシーを何者かに誘拐され、山小屋で血に染まったミッシーの衣服が見つかる。犯人を憎み、悲しみの日々を送っていた父親のマックの元へある日、ポストに「あの小屋へ来い」という手紙が入っていた。小屋へ向かうマックはそこで神と出会う。
神様と対話をするという不思議な経験から、人を赦すということ、そして信仰を与えられる。
何故殺人を犯した犯人を神様は赦せというのか?理解は非常に難しいが、元々神様は一人ひとりを愛するために造られた。だから愛する人には選択の自由が与えられる。たとえそれが殺人のような酷いことでも。マックが人を裁くシーンでとてもよくわかる。
神様は犯人のことを好きになれとは言っていない。でも犯人を赦すことで悲しみが癒え、残りの人生を前向きに歩めることを教えてくれる。
必ず犯人は神様が最後に裁いてくれるだろう。
下手な神父の説法より説得力がある
「悲しみから最上のものを引き出す」
観たのがだいぶ前だったので正確ではないと思いますが、この言葉になるほどと思った。
ほとんどの無神論者や宗教に無頓着な人間にとっては、概ね悲劇に直面した信徒や民衆に対して神父が言う常套句「信じれば救われる」「これは神の試練」などの説教には到底納得できるものではないだろう。
私も過去宗教史を専攻したことがあるが、「本当に神がいるなら悲劇は起きないし、救ってくれるはず」ぐらいに思ってました。
でもこの物語の神は言います。そうではなく、人間が選んだことや起きたことは人間の責任だと。ただ、神は苦しんでいる感情を乗り越えるための手助けをしてくれると。苦しみを乗り越えたときの強さや悟りがその人から湧き出る最上のもの、なんだと。
ま、要するに負の感情は自分自身を苦しめるだけで、一番救われたいのに一番自分を傷つけてるのは自分自身なんですよね。
そもそも本当に神がいたとしても、1人1人に起きた苦しみを取り除いていたらきりがないし、それなら最初から憎しみ合う感情を無くせばいい、という話になる。人間そのものを作らなければよかった、ということにもなってしまう。
マックは娘を救えなかった自分自身を責め続け、妹の死を招いた罪悪感に苛まれている姉は、父の姿をみて自分が責められている気持ちに陥る。
その辛さから父を拒絶し遠ざける結果になる。この二人は似ているんですよね。責任感があるから苦しむ。
対照的に母と兄も似ていて、この二人は過去より現在に向き合って生きている。
聖書は過去一通り読んだことがあるが、この物語の教えの方がストンと腑に落ちるものがある。だからといって神を信じるわけではないが、キリスト教の教えを哲学的に捉えることはできた。
肝っ玉母さん風のオクタヴィア・スペンサーは既存の神像に囚われない存在感、人間1人1人が己の正義をふるったら混沌しかないと諭す、聖霊役のすみれは台詞少な目でもどこか神秘的でよかった。
泣けた
多分キリスト教に少しでも触れていればすんなり受け入れられるかも、という気がする。
そうでなければ、拒否かな。
だっていきなり、近所にいた人に「私が神」「私が善」とか言われてもねぇ。
洞穴に座ってた人が「私が英知」って。受け入れられないですよ。
やはり突き詰めれば神ならなぜ罪のない子が殺されるのを見逃したの?となるでしょ。
女の子を殺された父や家族の失意の日々は想像にも耐え難く、犯人には怒りと憎しみしかないのは当然かと。
その上家族間がギクシャクするのは本当に辛い。
良き隣人、友人がいることで、むしろこっちの方が観ていて救われる。
とはいえ、心は閉ざしたままだから、神の力が必要だったのでしょうか。
涙が止まらなかったのは、お花畑のミッシーとの再会シーン。
「もう放してあげて」(だったかな?)という言葉で、会いたくて仕方がなかった人や犬達もこんな風に幸せでいてくれるなら悲しむ必要はないな、と思って温かい気持ちになった。
もちろん、これが正しい死後の世界かどうかなんて誰にもわからないけれど。
ご都合主義かもしれないけど、信じる人は癒される、それに尽きる映画だと思う。
凄く泣いたけど、全く理解できませんでした…
ただひたすらに悲しかっただけでした。
大切な家族を殺されて、犯人を許せ?
無理です。
原作を読めば、もう少し理解できるのかもしれないけど、私からすると、最初から最後まで残酷な話に思えました。自分の家族が殺された時のこと思ったら、とてもこの主人公のように嘘でも「赦す」なんて言えません。きっと、怒りと憎しみを抱えたまま生きていくと思います。
と、自分の感情ばかりが先立って映画を楽しむ暇がありませんでした…
ハロウィンがコスプレになる日本
原題は『The Shack』、日本語で「小屋」の意味になり、原作小説は全世界で2200万部も売り上げているらしい。
キリスト教圏は欧米中心に旧植民地域も含まれるからアメリカでベストセラーになれば瞬く間に世界に伝播するのだろう。
日本でも『神の小屋』という邦題で刊行されているが、本作を観る限りキリスト教徒以外はとっつきにくいように思う。
少なくとも筆者が読むことはない。
本作でも描かれているようにアメリカは子どもの誘拐が多いし、銃乱射事件が起きたり、突然親しい人が意味もなく亡くなるケースが日本に比べれば多いだろう。
またその際、一神教の全知全能の神は善良な人々が突然死ぬことになかなか納得のいく回答を与えられないことがあるらしい。
上記の不幸な人々に「あなたの信仰が足りないからです!」と説教する牧師もいるというから、その論理は本末転倒であるとしか思えない。
中にはショックから無神論者になってしまう人もいると聞く。
日本にも戦国時代にポルトガルから宣教師が訪れたが、当時の日本人は学のない者であってもその論理矛盾を突いていたようだ。
「キリスト教に改宗すれば天国に行ける」と宣教師が言えば、「じゃあ、俺たちの先祖はどこにいるんだ?」と返し、宣教師が「地獄」と答えれば、「今の暮らしに不満もなければ、先祖にも申し訳ないので俺も地獄に行く」と答えるなど宣教師をまともに相手にしていなかったらしい。
ところが、キリシタン大名を通じて神社仏閣を壊して教会を建てるわ、戦争で敗れた地域の領民を奴隷にして海外に売るわ、目に余ることをし出したので豊臣秀吉がバテレン追放令を出したのである。
スピリチュアル映画は時代とともに本格性や社会における重要性が増しているように思われる。
著者が観た映画の中で明らかにスピリチュアルな作品だと意識したのは『奇跡の輝き』が初めてである。
『レナードの朝』『フィッシャー・キング』『フック』『ジュマンジ』『パッチ・アダムス』などを観てお気に入りだったロビン・ウィリアムズが主演だったので観に行ったのだが、キリスト教的なスピリチュアルな世界観に正直ついていけなかった。
丹波哲郎の『大霊界』がアメリカだとこうなるのかぁ〜ぐらいの感想である。上映時の1999年の日本ではこの作品は際物のような扱いだった気がする。
クリント・イーストウッド監督作品の『ヒア・アフター』は封切り後、すぐに311の東日本大震災が起きたため、冒頭のリアルな津波描写が災いして2週間ほどで上映打ち切りになった。
筆者は震災前に映画館に足を運んだため観ることができたが、イーストウッドほどの大監督もスピリチュアル作品を創るのかと少々驚いた。
この作品はキリスト教色がそれほど強いわけではなかったので、受け入れられたし、内容的にも面白かった。震災のため打ち切りになったのは不運に思った。
他に鑑賞した映画としては『天国は、本当にある』を挙げられる。
この作品は実話を元にしている作品だったが、子どもを主役にしてキリスト教というよりも家族のつながりに焦点を当てた万人が受け入れやすい感動作に仕上がっていた。
ちなみに子どもは奇跡の生還をして以降神の声を聞くなど不思議な力を持つようになるのだが、洋の東西や宗教の違いを超えてあの世の光景はいっしょらしい。
水木しげるが『神秘家列伝』で取り上げたスウェーデンボルグは生きながらこの世と霊界を行き来していたとして数多くの記述を残している(筆者も『天界と地獄』のみ所有している)が、霊界の描写に生還者との共通点が多い。
面白いことに彼は本作の主要な仕掛けとなっている三位一体論を三神論として退けている。
日本でも最近は神社のパワースポットが話題になるなどスピリチュアルの波は来ているし、このところヨーロッパでも本作ほどではなくても『パーソナル・ショッパー』や『君はひとりじゃない』『プラネタリウム』などスピリチャアルを取り入れた作品は増えている。
それだけ全世界で社会情勢が不安定化、流動化しているのだろう。
筆者には、父なる神と子なるイエス、聖霊の三位一体論を体現する3人が登場したり、劇中の各所に聖書に基づく会話がちりばめられたりしているだけでも、本作が相当キリスト教色の濃い作品に感じられてしまうが、厳格な神学者や司教からは異端思想である「万人救済主義」を唱えているとして本作は攻撃されているという。
八百万もいる日本の神々は寛容かつ曖昧である。
ある意味、お釈迦様もイエスもムハンマドもエジプトやヒンドゥーの神々だろうが、なんでも同時に認めてしまえる。
本作では「パパ」こと神を黒人女性、イエスをユダヤ人男性、聖霊をアジア人女性、叡智の女神をヒスパニック系女性、そして一回だけ「パパ」が男性の姿を取る時はインディアンと、各人種を万遍なく取り入れている。
ユダヤ人はそもそも人種の名前ではなくほぼユダヤ教徒と同一であり、大きく2つに分けると白人はアシュケナージ系、アラブ人と見た目がほとんど変わらない中東系はスファラディ系となり、本来イエスはスファラディ系ユダヤ人である。
本作においてイスラエル国籍のスファラディ系のアヴラハム・アヴィヴ・アラッシュがイエスを演じているのは正しいし、『天国は、本当にある』でも実際にイエスに会ったという少女の描くイエスの顔はスファラディ系ユダヤ人の顔をしている。
ただし、インディアンの神話を冒頭に伏線として張り、後に「パパ」をインディアン姿で登場させて主人公と娘が再会するお膳立てをすることでその回収をしているが、過去にアメリカ大陸で1000万ものインディアンの95%を滅ぼしておいてのこの展開はあまりにも無神経に過ぎる。そもそもインディアンの神々はアメリカの大地に根ざしているのであってキリスト教とは一切関係がない。
俳優陣は主役のマック役のサム・ワーシントンをはじめそれなりに演技力のある人を集めているようにも思えるが、聖霊サラユー役のすみれがほぼネイティブなみに英語に堪能なのはわかったものの、演技力に優れているのかは本作だけではよくわからない。
マックが洞窟で会うソフィア(叡智)役のアリシー・ブラガは『オン・ザ・ロード』において旅をする主人公と短期間だけ恋人になる女性を演じていたのが印象にある。
なお本作に登場する3つの小屋は全て一から建てたというから感心する。
本作をめぐって宗教的にいろいろと論争があるのを知ると、バレンタインはチョコーレートをあげる日、ハロウィンはコスプレの日に変換してしまう日本の懐の深いいい加減さは偉大かもしれない。
苦しみの底にあるもの
娘の遺体が見つかっていないことが、空の棺での葬儀で示される。
最後近くに娘が天国のような所で、元気でいること、彼女の遺体を棺に入れ自分の心の中にしっかりと埋葬することが、神と共になされる。その場面が一番心に残った。
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