ロダン カミーユと永遠のアトリエのレビュー・感想・評価
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自身の教養不足が悔やまれる
美術史をほんの少し聞きかじっている程度で、前情報を調べずに劇場へ足を運んだものだから結構的外れな感想を書いているかもしれません。
オギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルの二人を中心に、ロダンの周囲の人間模様を描いた本作品。
一見、主人公ロダンの女性付き合いには驚かされるが、その時代の頂点に君臨している彫刻家の創造性の地盤には、性と美に対する素直な愛があるからこそだということが伺えた。
本作はロダンの感受性の豊かさを示唆するシーンがいくつかある。内縁の妻ローズと小道を散歩しているシーンでは、道端にカタツムリの通った後の微かに煌く軌跡を凝視したり、樹木の皮脂に手を触れて感触を味わっていたり。
他にも自然に対して愛情を向けているシーンが散見され、愛欲と葛藤が中心に描かれているように見受けられる中、そういった描写を盛り込むことで伝記映画としてはとても熟成されているように感じた。
また、ロダンの交友関係は現代の美術史に必ず名前が上がるような偉人ばかりで、食事会でモネやセザンヌが登場してきた時には思わず言い様のない興奮が込み上げてきた。
ただ、自分は教養が全く不足した状態での視聴だったので、その映画内で描写されていたセザンヌの葛藤やバルザック像の当初の評価と現代の評価の差異などは、映画を視聴するまで全く知らないでいた。美術史と時代背景をもっと勉強してから観に行けばよかったと後悔が残ってしまうほど、その時代に生きる人たちの美的感性の葛藤が色濃く表現されているのが本作品だと思う。
自分自身が、少しは"考える人"になったほうがいい
ロダンの創作に迫る、もっとゴリゴリのアート映画を想像していたら、上っ面だけの伝記路線で肩すかし。平凡。
"地獄の門"、"考える人"などの代表作で、"近代彫刻の父"と言われる彫刻家オーギュスト・ロダンを主人公に、その弟子だった女性彫刻家カミーユ・クローデルとの愛人関係をフツウになぞったラブストーリーである。
"ロダン没後100年"ということで、記念が製作の目的か、"カンヌ映画祭"の公式招待になることが前提で、ロダン美術館全面協力と、名匠ジャック・ドワイヨン監督をブッキングした企画モノのような趣き。
むしろ、ロダンよりもよっぽど映画向きの主人公になる数奇な運命なのは、カミーユ・クローデル。42歳のロダンに対して19歳のカミーユは、その若さと美貌と才能で、ロダンを狂わせ、しかしながらカミーユ自身の作品は評価が得られず、統合失調症で晩年は一人寂しく病院で亡くなっている。
その人生は、「カミーユ・クローデル」(1988年/Camille Claudel)と、「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(2013年/Camille Claudel 1915)で映画化されている。なので美術通ならずとも映画ファンにも知られているかも。
一方で本作は、有名人ロダンを主人公にして、奥さんと別れられない典型的なダメダメ男である。"芸術"を言い訳にした自己肯定で、三角関係を続けるばかりか、カミーユをはらませて、中絶させる。そりゃ彼女も病気になっちゃうわね。
ロダン自身が、少しは"考える人"になったほうがいい(笑)。
ロダン美術館の協力があるので、アトリエなどの制作現場の再現や、作品の細部までのリアリティがもっともらしい。とくに「バルザック記念像」にまつわる作品群の制作秘話が興味深い。"裸スタイル"とか、"コートを羽織るスタイル"、"頭部だけ"とかのバリエーションの意味が初めてわかった。
当時のロダンの交友関係も見えてくる。セザンヌとゾラが出てくるのは、今年公開された「セザンヌと過ごした時間」(2017年/Cezanne et moi)を併せて観ると、当時のフランスの美術界の時代感がつながってきたりする。そういう楽しみ方でお茶を濁したい。
(2017/11/17 /新宿ピカデリー/シネスコ/字幕:横井和子)
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