「映画で詩を表現するということ」パターソン りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
映画で詩を表現するということ
アダム・ドライヴァー扮するバスの運転手(ドライヴァー)の名前はパターソン。
彼が生まれ育った町は、ニュージャージー州のパターソン。
彼は毎日、気に留まったことを、手元のノートブックに詩に書いている。
彼が好きな詩人は、パターソンで暮らしたウィリアム・カーロス・ウィリアムズ。
毎朝6時半ごろに目覚め、バスを運転し、勤務が終わると、自宅前の傾いだポストを真っ直ぐにし、近所のドクのバーまで愛犬を散歩させて、ビールを2杯ばかし飲んで帰る。
そんな毎日・・・
というところから始まる物語で、まぁ、大した出来事はほとんど起こらない。
そんな毎日を、ジャームッシュは映像として切り取っていく。
ダブルベッッドで眠るパターソンと妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)。
ベッドを真上から捉え、二人の寝姿は繋がっているかのよう。
時間は6時半頃。
20分頃だったり、15分だったり、30分頃だったり。
出勤したパターソンをチェックするバス会社の管理者。
「今日はどうだい」から始まる会話は、毎日似たようなものだけれど、管理者の返答は毎日異なる。
反復の連続。
そんな毎日。
だけれど、微妙に異なる。
その差異を観客に見つけ出してほしいといわんばかりに、ジャームッシュは同じようなフレームで映像を綴っていく。
そんなにアップじゃない、どちらかといえば、引いたフレーム。
さらに念の入ったことに、移動撮影の際にも、被写体の大きさは変わらないようにしている。
横移動だけでなく、縦の移動でも。
バスが画面奥から進んできても、その大きさは変わらないし、フロントガラス越しにみる風景は大きさは変わらない。
たぶん、この映画を演出する上で、もっとも気にかけた点だろう。
主人公が綴る詩は自由詩だけれど、詩が持つ言葉の厳選さ、みたいなものを、映像に移し替えたといえる。
そしてもうひとつ、詩といえば韻を踏むこと。
この映画では、いくつもの相似形を描いていく。
ひとつは、双子。
あきらかな双子もいれば、双子に見えるふたりもいる。
単に、靴の左右を反対に履いているだけの、ふたりのバス乗客もいる。
それになにより、パターソンに暮らすパターソン。
ドライヴァー役のドライヴァー。
でも、その相似形もふたつだけ。
途中、パターソンが出会う10歳の少女が書いた詩(水が、落ちる。エア(宇)から。髪(ヘア)を伝って)のように。
そう、ちょっとした類似、符丁、偶然の一致。
そんなものに心惹かれ、美しいと感じる毎日。
それが幸せ。
とはいえ、幸せは移ろいやすい、壊れやすい。
まして、日常のちょっとしたところに感じる幸せなんて、気づかなくなったらそれまでだし、壊してしまうことなんて容易い。
週末、パターソンが書いていた詩のノートブックを、愛犬が、留守の間に破って粉々にしてしまう。
言葉は発した瞬間から消え失せてしまうものだけれど、書き留めた言葉はいつまでも残るような気がする。
そして、そこに遺した言葉とともに、その時の「想い(幸せ)」も、そこにあるように思う。
ホントは、ただの、アルファベットの連続だけれど。
落ち込むパターソン。
幸せが「なくなって」しまったように「感じる」パターソン。
そんな彼を救うのが、詩を愛する日本人(永瀬正敏)。
彼が頻繁に口にするのは「アぁ、ハぁ?(a-ha?)」。
似ているふたつの音の組み合わせ。
納得(アぁ)と疑問(ハぁ)。
滝が見えるベンチに並ぶふたり。
アとハ。
偶然の一致、ちょっとした類似、なにか(たぶん、幸せ)の符丁。
日本人から手渡されるのは、白紙のノートブック。
世界は変わっていない。
ちょっと、変化したかもしれない。
かつての幸せは、いまは、ないかもしれない。
でも、やっぱり、世界は変わっていない。
幸せな瞬間を、ふたたび感じるだけでいいんじゃないか。
そんな意味の詩を、映像にして綴ってみた。
そういう映画だろう。
という映画なんですが、個人的には、ちょっと詩としては長いかな。
特に、反復の水曜・木曜あたりでダレダレになっちゃいましたもので。