「アップが多い演出の理由を考察」光(河瀬直美監督) りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
アップが多い演出の理由を考察
20代後半(と思われる)尾崎美佐子(水崎綾女)は、視覚障碍者向けの映画音声ガイドをつくる仕事をしている。
今回の映画は、ベテラン北林監督(藤竜也)が自ら主演した介護に係る映画。
北林監督の作品は、これまで同様、余韻や余白を残した映画で、音声ガイドを作るのは難しい。
視覚障碍者のモニター方々の意見を交えながらつくる音声ガイドであるが、今回のモニターの中に、ひとり気難しい男性がいた。
彼の名前は、中森雅哉(永瀬正敏)。
以前は一線で活躍していた彼だが、目の病から仕事から退き、いまはほとんど見えていない。
拡大読書機などの助けを借りて、文字を読み取るのが精いっぱい。
しかし、愛用の二眼レフ・ローライのカメラは手放していない。
そんな彼から美佐子は厳しい一言を受ける。
「押しつけがましいんだよ、君の音声ガイドは・・・」
というところから始まる物語で、映画の王道ともいうべき、価値観の異なる二人が出逢って、互いの価値観を受け容れつつ、自身が変化していくという物語だ。
なので謳い文句にある「河瀬直美監督が挑む珠玉のラブストーリー」というのは、少々誇張しすぎかもしれない。
ストーリーの基軸をなすふたりの異なる価値観(生き方といってもいい)は次の通り。
中森は、徐々に見えなくなっていく現状(否、もうほとんどみえていない現状)を受け容れずに、これまでの自分を生きる支えとしている男。
常に携帯しているローライのカメラが、その証である。
美佐子はまだ若く、人生の曖昧さ(余白と言ってもいい)を理解していない。
それは音声ガイドにも表れ、晴眼者は視覚障碍者よりも「見えている=わかっている」と思い、「自分の」わかっていることを伝えよう(得てして、押しつけに繋がる)とする。
そして、映画に対しても、余白や余韻や曖昧さを排除して、何らかの確固たる結論(いわゆる「希望」などの言葉で象徴される)ものを欲しており、それが良いものだと思っている。
そんな二人が出会い、結果として、曖昧であるが(曖昧でかつ、か)確固たるものを得るというのがストーリーで、その曖昧で確固たるものの象徴が「光」である。
キャッチーに言い換えれば「愛」かもしれず、その意味では「珠玉のラブストーリー」も嘘ではないが、もう少しかみ砕いていえば「他者に対する理解」である。
そういう物語を、紡ぐ河瀬直美監督の演出はすこぶる上手い。
それまで自分主体の話法であった監督が、前作『あん』で(失礼ながら)ようやく第三者的話法を会得したのかしらん、と思ったのだが、本作ではそれを一歩進めている。
第三者の立場になるように、観客を追い込むような演出方法を取っている。
その方法がアップの多用。
しかしながら、アップの多用というのは、ほとんどが台詞をしゃべる話者を追うという手法で、この手法を採れば登場人物の内面に肉薄できると勘違いしがちな手法。
だが、この映画でアップで映し出される多くは、話し手以上に聞き手。
つまり、画面から得られる情報が極めて少ない。
特に、美佐子が音声ガイドを作っている北林監督の映画の画面は、意図的に隠され、何が写っているのかは、観客にわからないにしている。
これによって、観客を、映画の中の視覚障碍者と同じポジションに追い込んでいく。
画面から得る情報が少ないことで、観客は、それ以外の情報(台詞、それ以外の音(雑音や息遣いも含めて))などい集中せざるを得なくなってくる。
これが、監督が意図した「、観客を第三者(登場人物たち)の立場になるように追い込むような演出、である。
この演出意図さえわかれば、もうあとは、劇中の登場人物になって観ていくだけだ。
そうして、美佐子と中森の価値観が変わるところ(中森の場合はカメラから白杖に変わるのでわかりやすい)に心動かされ、最後の最後に、完成した北林監督作品の音声ガイドを聴けばよいだけだ。
そのラストにしても、「それ」は見えていない。
見えていなくとも、そこに「ある」ことが感じられればよいのだ。