「無神論の黄昏」ソーセージ・パーティー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
無神論の黄昏
スーパーマーケットに並ぶ商品たちの間で流布している「外に出たら楽園が待っている」「楽園に辿り着くためには棚の上で徳を積む必要がある」といった教義は現実の宗教にもよくみられる。神の救済を迎えるために身も心も潔白でいましょう、と信心する食品たちはさながら敬虔なカトリック教徒のようだ。
しかし食品たちが神と崇める人間の正体は彼らの認識とは大きくかけ離れたものだった。彼らは食品たちに救済を与えるどころか、彼らを切り刻み、焼き払い、咀嚼する悪魔の化身だった。
ではなぜ人間=神などというインチキ宗教が罷り通っているかといえば、スーパーマーケットの古参商品たちがそのようなフィクションをでっち上げたからだ。彼らは人間が店内にやってくるたびに阿鼻叫喚の様相を呈する商品たちを憂い、人間=神という等式を考案することで大衆の混沌を体よく鎮めた。何らかの不条理を宗教というフィクションに接収することで合理化を図るというのも現実の宗教によくあるプロセスだ。
しかし宗教とはその信奉者の数が多ければ多いほど多種多様な派閥を生み出すものだ。カトリックとプロテスタント、スンニ派とシーア派、あるいは日蓮宗と創価学会…古参商品たちが作り出したプロトタイプの教義は各棚の各商品によって恣意的な書き換えが行われ、それらはいつしかカルト的な民族ナショナリズムの温床として機能するようになった。迷える人心を一つにまとめ上げるための強固なフィクションであったはずの宗教は、いつしか民族間の対立と分断を煽るイデオロギーへと頽廃してしまったのだ。
主人公のソーセージは、はじめこそ人間=神の素朴な信奉者だったが、ふとしたきっかけでそこに疑念を抱き始める。本当に人間は神なのか?スーパーマーケットの扉の向こうは本当に天国なのか?彼は真実を探す孤独な冒険の果てに、この宗教を断ち切るための確たるエビデンスを手に入れる。それは料理本、すなわち人間による商品殺戮絵巻だった。
彼は料理本の紙片を商品たちに見せつけながら「目を覚ませ!」と訴えるが、誰一人耳を貸そうとしない。これはある意味では当然のことといえる。ソーセージのガールフレンドであるパンが、彼の啓蒙的な物言いに対して「そんな言い方じゃダメ」と苦言を呈していたことからもわかるように、既に強い信心をもっている人々に対して「俺だけが真理を知っている」的な態度で接してもまるで意味がない。そうではなく、彼らと同じ目線から、彼らに勇気を与えること。
ここでいう勇気とは何かというと、それは教義への挑戦だ。清く正しく生きる、という宗教的自縛から逸脱すること。
しかしこの逸脱へのプロセスは清々しいくらいのマッチポンプだった。ソーセージ率いる反宗教軍は、スーパーマーケットをうろつく人間たちをヤク漬けの暴徒と化させ、彼らの凶暴性を商品たちの前で暴き立てることによって、半ば強制的に信心を解体させたのだ。言うなればこれはキリストを壇上に引き摺り出して「ほら見てください!こいつ秘儀とか何もできないんすよ!」と嘲弄することと大差がない。けっこうな荒療治だ。
かくして商品たちは誤った信心を捨て、邪悪な人間たちを葬り去ることに成功したが、その後に残るのはセックス・ドラッグ・ロックンロールといった具合の無秩序な本能の狂宴だ。そのカオスぶりはヘイズコードや反共産主義といったコードに縛られたハリウッド神話の傷口から滲み出したアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる。しかしこの無神論の熱狂が覚める頃、彼らはいったい何を思うのだろうか。神はいなかった、俺たちはその真理を暴いた、しかしだから何だというのか?重要なのは、その後の世界をどう生き抜くか、ではないのか?そこに対する処方箋を欠いていたがゆえにアメリカン・ニューシネマは『タワーリング・インフェルノ』や『スター・ウォーズ』に取って代わられたのではなかったか?
しかし無神論の後に出来するであろうより実存的な不安には何ら手をつけないまま、物語は安易なメタフィクションへと逃避して幕を閉じる。どうせなら革命が成功した時点で終幕させ、続編を仄めかすくらいの気概は見せてほしかった。