「「人間らしさ」=合理的説明ではなく、自らの感情にしたがうこと?」ブレードランナー 2049 f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
「人間らしさ」=合理的説明ではなく、自らの感情にしたがうこと?
★ポイント:「Kの父親がデッカードである」という期待は、偽りの記憶から導かれた結論だ。そのことが分かってなお、Kはデッカードを守り、子の元へ届ける。Kは根拠にもとづいた合理的説明よりも、自らの期待=感情や情緒、にしたがった。その礎が、"他者"の記憶にあれど。そこに「人間らしさ」が見出されるということなのだろうか。
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フィリップ・K・ディックによる小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)を原作として,リドリー・スコット監督による映画『ブレードランナー』(1982)が製作された。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による映画『ブレードランナー2049』(2017)は,その続編である。
『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』の舞台は、近未来のロサンゼルスである。この世界においてはアンドロイド(レプリカント)が労働力の一部を担う。レプリカントの身体は、機械ではない。生身の肉体を持ち、表皮からから内臓にいたるまで、ほとんど人間に等しい。見た目は人間と区別がつかず、知能は人間と同等,身体能力は人間を超える。軍隊における使役、買売春における性労働への従事など,レプリカントは人間の支配下に置かれている。
レプリカントは自我や感情を持たず,人間の指示に服従する。ところが生産から数年が経過すると自我や感情を持ってしまうという”不具合”の存在が判明する。不具合が発生したレプリカントは,反抗や脱走を行った。そのような面倒を避けるため,レプリカントには4年という寿命が設けられた。一方で,実際に脱走したレプリカントを追跡・処分する役割を担ったのが「ブレードランナー」である。劇中に登場するブレードランナーはロサンゼルス市警所属部署に所属し,レプリカントを発見次第「退役」させる。
『ブレードランナー』における主人公は,ハリソン・フォード演ずるブレードランナー,デッカードである。デッカードは数体のレプリカントの処分を命じられ、任務を遂行するが,最後には女性レプリカントと恋に落ち逃亡する。『ブレードランナー2049』は,デッカードの逃亡から30年後を舞台に,別のブレードランナー”K”を主人公に据える。
『ブレードランナー』の主人公デッカードは人間である。というよりも、デッカードが人間であるという前提にしたがって、鑑賞者は映画を見始める。ところが巷にはデッカードがレプリカントであるという説も存在する。ただしデッカードが人間であるということはわざわざ示されないし、デッカードがレプリカントであるということもまた示されない。デッカードがレプリカントであるという説は公開後にファンの中から出た見方のようで、製作者側が当初から意図していたものではないようである。けれども1982年の第1作公開から35年の歳月が経過し、『ブレードランナー2049』が公開されるにあたって、映画製作者側が「デッカード=レプリカント説」を意識せざるを得なくなった。そういうわけで、『ブレードランナー2049』は、鑑賞者が「デッカードはレプリカントなのか?」と疑いながら観ることのできるよう準備がなされた作りになっている。
(ただし『ブレードランナー』時点で最新型であるネクサス6の寿命は4年だから,『ブレードランナー』後に30年以上生きたデッカードがネクサス6だということはあり得ない。それでもデッカードがレプリカントであるとすれば、ネクサス7か8、あるいは特別な型だということになる。
また、『ブレードランナー』劇中において、タイレル社長の口から「タイレル社製のレプリカントには幼少期の記憶が補完されていない」ことを匂わせる発言が成されている。この発言を聞いたデッカードの反応は、彼には記憶があることを前提とするものに思われる。デッカードが幼少期の記憶を持つとすれば、デッカードはタイレル社によって作られたレプリカントではないことになる。
ネクサス6の次世代モデルである7には記憶が補完されたかも知れないし、『ブレードランナー2049』に登場するネクサス8には実際に記憶が補完されている。しかしネクサス7と8は、デッカードが誕生するよりも後の型番である。したがって30年以上生存可能であり、かつ記憶を有するデッカードが、仮にレプリカントであるとすれば、6と7のあいだの特別な型である。)
デッカードが人間なのかレプリカントなのかを断定する情報が劇中では与えられない(おそらく意図的に断定を避けるように作られている)のに対し,『ブレードランナー2049』の主人公Kは,明確にレプリカントである。彼はレプリカントでありながら同じレプリカントを処分する役割を与えられる。また同時に,レプリカントという被支配階級の存在として,人間から不満のはけ口として扱われる。Kにとっての安らぎは,ホログラム型AI”ジョイ”とのロマンスだった(”ジョイ”は我々にとってのSiriのような存在である)
レプリカントであるKは,はじめから成人男性の姿を持って生まれてくる。したがって彼にとって幼少期は実在しない。しかしながら「人間性の補完」という理由で,レプリカントには幼少期の記憶が補完されている。幼少期の記憶を有することが,レプリカントの精神的安定につながるとされていたのである。
いつも通りの業務をこなすうち、Kは「自分が特別なレプリカントなのではないか」という可能性に行き当たる。それはすなわち「自分が、レプリカントから生まれたレプリカントである」という可能性だ。当時レプリカントには妊娠・出産が不可能とされた。そしてレプリカントには繁殖が不可能であることこそ,劇中において「非生物=モノ」であるレプリカントを人間が支配する根拠となっていた。
Kが発見したのは,女性型レプリカントの遺骨である。この遺骨には出産の形跡があった。そしてこのレプリカントの墓石に記されていた日付は,Kの幼少期の記憶に登場する木馬人形に記された日付に一致したのである。さらにレプリカントの記憶は作りものであるはずにも関わらず,Kは木馬人形を発見する。つまり,作り物であるはずのKの記憶に合致する事実が存在したのである。Kの記憶は本物のものであり、Kには幼少期が存在したのだろうか?(木馬の記憶は、Kの有する唯一の幼少期の記憶だという。我々人間が「わたしには幼少期が存在した」というとき、たった1つの映像記憶とそれに合致するたった1つの事実を以って、そう考えるだろうか?いやそうではない。私たちにはもっと多くの(複数の)記憶(映像や、体験と感情の結びつき)があり、現在存在する事実は過去から連続したものである。たとえば目の前に存在する父親や母親は、過去から連続してきたものである。「過去の記憶が現在も目の前に存在する」ことの確認を繰り返しながら、記憶の上塗りを繰り返しながら現在がある。Kのばあい、幼少期の記憶と現在の環境とは全く乖離しており、実際の人間のばあいとの比較ができない)
さてKが持つ木馬の記憶が本物だという可能性が浮上したが、木馬の記憶は「本物だが他者のもの」だという可能性もある。だが当時の法律で,記憶の移植は禁止されていた。法を犯してKへの記憶の移植が行われた可能性もあるが,その可能性へ明確に言及することなく、Kは「自分がレプリカントから生まれた」という可能性へと傾く。(おそらくここでKに期待を抱かせたのが、レプリカントに対する迫害や、K自身の孤独である)
Kは,埋葬されていた死体が,30年前にデッカードとともに逃亡したレプリカントのものだと調べ上げる。そして、父親であると思われるデッカードの居場所を探し当てる。デッカードがレプリカントであるか人間であるかはわからないが,いずれにせよ彼と交配したレプリカントが妊娠・出産したのだ。孤独なKにとって,デッカードは父親かもしれないのだ。
だがやがて、Kの記憶は「本物だが他者から移植されたもの」だと判明する。Kは結局,一介のレプリカントに過ぎなかった。しかしKは,デッカードの逃亡に手を貸し,追っ手を撃退し、「レプリカントから生まれたレプリカント」である娘のもとへデッカードを送り届ける。デッカードの娘を祭り上げて今まさに起ころうとするレプリカントの反乱を目前に,傷ついたKは雪の中で息絶える。
さて、「自分がレプリカントから生まれたのではない,普通のレプリカントだ」ということを知ったKは,落胆する。ここでKは1度,生きる意味を失う。だがレプリカントの反乱指導者から「証拠隠滅のためデッカードを殺せ」という任務を命じられる。「大義のための死は何より人間らしい」と。
母親の胎内から生まれたわけではなく,作られた存在であるレプリカントは,魂のない存在,生命ではないとされる。しかし魂は持たずとも「人間らしく」あろうとすることが,Kにとっての「人生の意味」として取って代わろうとする。
だがデッカードを殺すことをKは選ばない。むしろ彼を救出し,彼の本当の娘と思しき女性の元へと届ける。それはKが,自分を使役しようとする外的な「大きな存在」からの指令によってではなく,自らの内在的な要因によって行為を選択した瞬間であった。このまま自分にとって外在的な「大きな存在」の大義達成に貢献し続けるのでは,ブレードランナーとして人間の大義に貢献し続けていたのと変わらない。
Kに父親は存在しないと判明したが,1度は自分の父親であるという可能性を感じた男性を,娘の元へ届ける。自分では結ぶことができなかったつながりを,他者と他者との間に結ぶ。自分では叶えられなかったことを,他者によって代理的に叶えてもらう。それは結局,Kが「自分のものではない」記憶を礎にして願いを叶えたということだ。自分のものではないと整合的に説明されてなお,他者の記憶をもとに生まれた「親との繋がりを得たい」「魂を得たい」「人間になりたい」という願望の達成への期待。そのような期待のやり場が,デッカードを娘のもとへと届けることにあった。
「代理」によって、Kは叶えられなかった自分の願望を叶え,失われかけた自分の「生の意味」をなんとか復活させ,維持しようとした。『ブレードランナー2049』は「自らの望みを叶える」という自己決定の物語である。「自らの望みを叶える」ことに、人間らしさが見出されたのかも知れない。