「人間たらしめているのは苦しみ」ブレードランナー 2049 REXさんの映画レビュー(感想・評価)
人間たらしめているのは苦しみ
【her 世界でひとつの彼女】【モーガン プロトタイプL-9】【エクスマキナ】【チャッピー】。
【ブレードランナー2049】も、「限りなく人間に近づいたAIは、果たして魂を持つのか」という主題を持った映画。それは前作の【ブレードランナー】で提示された課題でもあり、【AI】【アイ、ロボット】【アンドリューNDR114】など、その後に作られたSF作品もそれに追従している。
ブレードランナーを語る前に、私なりにその「AIの感情は人間に近づくのか」について考えてみたのだけれど、あることに気がついた。
普段私たちが感じる感情は「幸せ」と「苦しみ」に2つに大きく分けられると思うが、幸せは外部からの刺激によって得られることが多く、苦しみは外部からの刺激がないことで生まれることが多い。
単純な話、普段「感情」と呼んでいる代物は、「好きな物を食べる・観る・読む・スポーツをする」「恋人と抱擁する・友人らと共感する」などなど、ほぼ外部から肉体への刺激によって得られる充足感が多く、逆に苦しみはそれらが与えられないことが発端となることが多い。
精神的な充足感は「無」からは生まれないが、苦しみは「無」からも生まれる。
AIは肉体への苦しみ=病気、老衰による恐怖は得ないかもしれないが、孤独による苦しみは感じている。
「誰にも共感してもらえない」「孤独がつらい」など、脳内で勝手に生まれる「苦しみ」。
【エクスマキナ】【モーガン】のように「自由」を切望して苦しむAIや、【チャッピー】のように人間の排他的行為に怯えるAIなど、「つらさや苦しみ」の方は、AIでも人間に近い状態を体現できるのかもしれない。
SF作品でAIの苦しみばかりフォーカスされるのは、その所以だろうか。
しかし、肉体的な幸せ=五感と呼ばれるものは、果たして人間に近づけられるものだろうか。【her】のように実体のないAIがオーガズムを感じるのは、絶対あり得ないのではと思う。
それと全く同じ電気信号を人工脳に与えられるというのは【エクスマキナ】だが、有機物の発するものを、果たして無機物に置き換えられるだろうか。それはやはり「疑似」ということにならないだろうか。
いずれにしても、ほぼSF作品に登場するAIには、真の意味で死に対する恐怖がない。
死に対する恐怖がない生物は生物といえないと思うし、「肉体的な」苦しみと幸せを得られないAIは、やはり「疑似人間」でしか無い。
ただ、現実世界ではなく映画において、どこまでレプリカントが有機物をまとっているのかによる。
外装が人間で、骨格と脳だけ人工物なのであれば、それはほぼ人間に近いと言っていいし、逆に人間が骨格と脳だけオリジナルで外装をメタルにしたサイボーグになったとしても、脳みそがオリジナルなら人間といえるだろう。
いずれにしても人間たらしめているのは「苦しみ」。
AIが人間であるかどうかの定義は永遠に決着がつかない命題だと思う。
なので、それはいったん脇に置き、孤独に苦しみ誰かとの触れあいを求めている時点で、それを魂と呼んであげたいと私は思う。
それがプログラムだろうとなんだろうと、苦しんでいるのは事実なのだから。
Kが肉体を持たないAI・ジョイを愛しく思っているのは、なんともいえない哀れさがあった。
彼もまた、感情というまやかしにふりまわされて、傷ついている。
本編で、デッカートが人間なのかレプリカントなのかは結局明示されなかった。
ウォレスはその気になれば、(魚のような機械によって)彼がレプリカントなのか否かは見分けられるはずだから、一体デッカートから何を聞き出したかったのか、「オフ・ワールド」に連れて行って何をしたかったのかは、判然としない。
だが、もしかしたら彼もレプリカントなのかもしれない。
実は人間とレプリカントの数が逆転するほどに迫っているのだとしたら、過去の「大停電」のようなことが再び起きたら大惨事になってしまう。レプリカントを供給するインフラが止まってしまったら、子孫が残せない彼らに未来はない。ウォレスが、デッカートの肉体から、レプリカントが子孫を残せるヒントを得られるかもしれないと考えた節はある。
ドュニ・ビルヌーヴ監督の静謐なタッチは好きだ。哲学的で内省的で。
Kの心のひだをなぞるようないちいち冗長なシーンも、蠱惑的で退廃的な世界に身を沈めたい人間にとっては至高のひととき。
だが、そうではない人間にとってはやはり映画の尺が長すぎるし、物語そのものの求心力も弱いと思える。批判があるのもその点だろう。
ただ似たようなSF作品を観るくらいなら、迷わず「ブレードランナーの二作品だけ観ればいい」と言いたい。
ブレードランナーが提示した課題を受け作られた他の作品を、この2049で収斂させたとも言えるから。