「レプリカントに電気羊の夢を見る権利はない」ブレードランナー 2049 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
レプリカントに電気羊の夢を見る権利はない
本作を観る前に復習として前作『ブレードランナー』を観た。そして本作でレイチェルの遺骨が見つかった時点でそれ以降の展開はほぼ読めた。
フィリップ・K・ディックの原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と映画『ブレードランナー』は全く方向性の違う作品である。
原作、映画ともにそれぞれの良さがあるが、本作は間違いなく映画『ブレードランナー』の続編である。
原作のリック・デッカードには妻イーランがいて、最後にはアンドロイドを殺すバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の仕事にも飽き飽きしてしまうからだ。
本作はデッカードとレプリカントのレイチェルの間に子どもが生まれる設定になっている。
裏設定としてレイチェルは生殖機能のないネクサス6型とは違い、生殖機能があるのだとか。
しかし前作の時点でレイチェルが他のネクサス6型とどこが特別なのか明示されてはおらず、本作を展開するための後付けの設定のように思える。
またデッカードの夢の中にユニコーンが登場したり、2人が旅立つシーンでデッカードが折り紙のユニコーンを見つけたりするシーンから、デッカードもレプリカントである含みを持たせているらしいが、リドリー・スコット自身の考えも二転三転して定まっていない。
レイチェルに生殖機能があるなら、デッカードは人間になるのではないか?
むしろデッカードがレプリカントなら彼も生殖機能がある何か特別なレプリカントにしなくてはいけなくなってしまう。
前作で人間とレプリンカントの奇跡の愛を描き、その象徴としてユニコーンを登場させているのだから、その奇跡の結晶が子どもということで前作からの辻褄が合う。
ライアン・ゴズリング演じるKが植え付けられた偽の記憶から木馬を発見するが、この馬は前作の奇跡の象徴であるユニコーンを連想させる。
ただ角が折れた存在が馬と捉えるなら奇跡はもはや期待できない意味を込めているのだろうか?
なお本作と前作『ブレードランナー』の30年の空白を埋める3つの映像作品がYouTubeで観られる。
『カウボーイビバップ』で有名な渡辺信一郎が監督したアニメ作品『ブラックアウト2022』、本作でも登場したジャレッド・レト扮するウォレスが主役となる『2036 ネクサス・ドーン』、Kが冒頭で処分するレプリカント、サッパー・モートンが主役の『2048 ノーウェア・トゥ・ラン』である。後者2作品はともにルーク・スコットが監督している。
原作のデッカードの生きるLAは、核戦争後の絶えず放射性降下物が降り積もり動物が殆ど絶滅した死の世界であるが、今回『ブラックアウト2022』においてレプリカントが電磁パルステロで大停電を引き起こすのを描いたことで原作の世界に近付けている。
このテロによって食糧難が起き、レプリカントの製造も禁止されたことになっており、その食料難を遺伝子組み換え作物の大量生産に成功して世界を救ったウォレスが実績を背景にレプリカント製造を解禁させる。
その一端を伺えるのが『2036 ネクサス・ドーン』であり、『2048 ノーウェア・トゥ・ラン』はモートンがLA警察から処分対象になった理由を明かす前日潭である。
本作は原作や前作映画へのオマージュが見受けられる作品でもある。
前作でデッカードの相棒だったガフをKが訪ねる際、彼が電気羊の単語を口にし、折り紙で羊を折るのも、原作のタイトルや本編中の電気羊へのオマージュであり、折り紙もユニコーンの折り紙を連想させる前作へのオマージュに当たるだろう。
LA警察に帰還したKが作業する際に日本語が直接使用されるところは屋台の日本人親父とデッカードの会話へのオマージュであり、コカコーラや「強力わかもと」の電子看板は前作そのままである。
本作の始まりで目のアップと近未来の都市が交互に映し出される映像も前作の完全な焼き直しである。
またレプリカントのブレードランナーであるKという存在そのものが原作へのオマージュである。
「K」という名前自体が原作者フィリップ・K・ディックを連想させるし、原作にはフィル・レッシュというアンドロイドを処分するアンドロイドのバウンティ・ハンターが登場する。
しかもレッシュは偽の記憶を埋め込まれて自分を人間だと思い込んでいる。
原作でもデッカードとレッシュとは共同でアンドロイドを追いつめているので、本作のデッカードとKの協力関係に通じるものがある。
原作のレッシュは一般社会ではアンドロイドと認識されていないこともあってその後の消息がわからないが、Kは彼の化身にも見える。
原作のホバー・カーが前作映画では十分に徹底できず単なる近未来的な車でしかなかったが、本作の縦横無尽に空を駆け巡る「スピナー」は、ディックの意図したものがやっと映像上で実現されたのではないだろうか。
ただ前作映画から継続して1つ残念なことがある。
レプリカントが終始奴隷なことである。
前作と同様に反乱を起こしたり、前日潭でテロを起こしたりという設定も、地球外植民地へ先兵として派遣されることも、どこまで行っても彼らは奴隷階級である。
LA警察内の同僚からも「人もどき」と差別されるKも、ウォレスに忠実で「最高の天使」とおだてられていいように使われているラヴも人間様よりは一段下の存在である。
人間のデッカードとレプリカントのレイチェルの間の子ども、アナ・ステラインが病弱な希望の象徴という設定もなんだか気になる。
デッカードを白人、レイチェルを黒人やインディオなどの実際の奴隷階級にされた人々に読み替えるなら、アナは混血児を象徴していることになる。
実際に中南米のインディオは差別されないために白人(スペイン人)との混血を望み、メスチーソが多く生まれている。
そういう歴史的事実を思い起こさせる設定からは白人の傲慢さが感じられなくもない。
ディックの原作では実は影ではアンドロイドの方が絶大な社会的影響力を持っている反面、核戦争後の死の灰によって人類は体力や思考力の劣る人間に落ちる危険に常に脅かされており、相対的にどちらが上位の存在なのかわからなくなっているし、生理的欲求から肉体関係を結ぶことはあっても、両者がおためごかしに情を通じることもない。
原作の題名であるアンドロイドは電気羊の夢を見るかどうかは実際のところは人間側からの想像であって、彼らアンドロイドにとってはどうでもいいことのように感じられる。
しかし本作の内容ではレプリカントたちはできれば人間になりたい、もしくは同等の差別されない存在になりたいのである。
そう考えると、彼らが人間と同等に電気羊を飼うのはかなわない夢であり、それを夢見る権利すらないように思える。
奴隷の概念のない日本では『鉄腕アトム』に代表されるようにロボットやアンドロイドといえど人類の友達になる。
また前作はディストピア作品でありながら制作当時の時代背景が反映されているせいかそこまで暗い作品には感じないが、本作では監督や俳優たちも未来はバラ色じゃないと感じているせいか全体的な雰囲気が相当に重く暗い。
K役のライアン・ゴズリングの演技は相変わらず素晴らしい。
最近では『ラ・ラ・ランド』で想い起こす人も多いだろうが、筆者はあくまでもデレク・シアンフランス監督作品の『ブルーバレンタイン』や『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』、ニコラス・ウィンディング・レフン監督作品の『ドライブ』や『オンリー・ゴッド』での彼の演技を強く推したい。
また、ゴズリングの監督作品である『ロスト・リバー』も現代におとぎ話を織り交ぜた素晴らしい作品である。
ジャレッド・レトは『スーサイド・スクワッド』の新ジョーカー役とはまた違った味を出しているし、Kのバーチャル恋人ジョイ役のアナ・デ・マルスは最近『スクランブル』で観たばかりである。
そして殺しも厭わない冷徹な女性レプリカント、ラヴを演じたシルヴィア・フークスは本作の役作りのために1日6時間、6ヶ月をかけてトレーニングを積んだらしい。
確かに日本では資金面の問題からトレーニングに時間をかけられない現実もあるのだろうが、本当にほとんどの日本の女優とは覚悟が違う。
フークスはジュゼッペ・トルナトーレ監督作品の『鑑定士と顔のない依頼人』で老人を手玉に取る美女を演じていたが、体作りの成果からかまったく同じ女優に見えないほどだった。
その他、冒頭で処分されるモートン役が『ガーデイアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズで破壊王ドラックスを演じたデイヴ・バウティスタであったり、LA警察のKの上司ジョシは『ワンダーウーマン』ではアマゾネス将軍を演じたロビン・ライトであったりと、奇しくも昨今のヒーローものに出演経験のある役者を起用しているのも面白い。
CGのため多少動きに違和感があるもののレイチェル役のショーン・ヤングの登場も本作の見所の1つである。
本作の音楽を担当したハンス・ジマーも前作のヴァンゲリスを意識した曲作りに徹していたので、エンドロールで流れる曲からは前作を彷彿とさせる感覚を覚えたし、前作でデザインのほぼ全てを担当したシド・ミードもデッカードの潜伏先のラスベガスの造形に関与していたりと前作を観た者には懐かしい想いがこみ上げて来るものがあるだろう。
そして根底のところで首を傾げるところはあるものの、前作や原作に敬意を払いつつ本作をまとめあげた監督のドゥニ・ヴィルヌーヴの手腕は見事である。
前作の『メッセージ』からこの監督を意識し始めたが、筆者はそれと知らずに過去にヴィルヌーヴの監督した『灼熱の魂』『複製された男』『プリズナーズ』『ボーダーライン』の4作品を観ていた。
特に『複製された男』と『ボーダーライン』は印象に残っている。
作風としては敵対する二者の間の葛藤を描きつつも、安易にリベラルには流れず距離を置いているように思える。現在はSF小説の金字塔『デューン 砂の惑星』の映画化を進めているという。
日本ではハヤカワ文庫から新訳版が刊行されて間もないし、過去にはデヴィッド・リンチの映画化監督作品が駄作と言われているだけに、どのような作品を魅せてくれるのか今から楽しみである。