幼な子われらに生まれ : インタビュー
閉鎖的な日本映画界をぶち壊す!
浅野忠信を突き動かす“情熱”とスコセッシ監督に学んだ“教え”
浅野忠信と田中麗奈が“再婚夫婦”を演じた映画「幼な子われらに生まれ」が、8月26日に全国公開される。直木賞作家・重松清氏が1996年に発表した小説を、「繕い裁つ人」「少女」の三島有紀子監督が実写化。主人公の“バツイチ”サラリーマン・信の目を通し、「家族とは?」「幸せとは?」「愛とは?」を見る者に問いかけるビターで鮮烈なヒューマンドラマだ。「岸辺の旅」「淵に立つ」「沈黙 サイレンス」と刺激的な作品に次々と出演する浅野が、もがき苦しんだ撮影から役者としての矜持(きょうじ)まで赤裸々に語った。(取材・文/編集部 写真/堀弥生)
「脚本が本当に面白かった」。インタビュー中、浅野は何度も繰り返しこの言葉を発した。「脚本っていうのはとても大きな、1つのモチベーションにつながる。この脚本が本当に面白くて僕は何度も何度も読んだんですが、(脚本家の)荒井(晴彦)さんが長年(原作)本を読んで、もしかしたら何回も変えて、最終的にぱっと書いた感じが伝わってくるんです。仕事柄、脚本は死ぬほど読むんですが、要点がちゃんと書かれているんですよ。本当に原作を大切にしている人じゃないと、要点は見えていないはず。だから毎日読めるし、毎日面白い。だからこそ(俳優として)“やることがない”って苦しくなってくる。でもやることがないのではなく、自分で見つけなきゃいけないということだから、余計に面白いんですよ」。
中でも、浅野の心を強くとらえたのは、信というキャラクターの普遍性だ。会社では“出向”という名目で左遷されて過酷な倉庫作業を強いられ、家庭では妻の連れ子である長女に「本当のパパに会いたい。パパは1人でいい」となじられる。内にも外にも苦悩を抱えながら発散する場は1人カラオケぐらいで、鬱屈やいら立ちを押し殺して日々を生きている男。そんなある種“普通の役”を、浅野は「僕の中では、来てほしくて来てくれた役」と言い切る。
「普通の人っていうのは、よくよく見れば見るほどいないわけです。“普通を装ってる人たち”というのがやっぱり1番面白いんですよね。すごく普通にしていても、中にはそれなりに問題がある。30代のころも、色々な役をやってきたなかで、これこそ表現したいなと思っていた。そういったイメージの延長線上にこの役が来たんです。過激な役では出せなかった“何か”を、これでしか出せなかったんですよ」。「役というのは、自分の知っている世界の延長線上でしかない。30代から、自分のその先の可能性を見つけようともがいていたし、40代の自分をイメージしてつかんでる何かがあって。40代を迎えたときに本当にそういう役をたくさんいただいてるんです」と明かした浅野は、運命的ともいえる信との出合いに大いなる可能性を見いだしていたようだ。
だからこそ、現場では理想を体現しようと身も心もボロボロになった。「自分の役がとても興味深い人だったから、そこ(演じること)にすごく集中していて。この作品に対する基準を絶対に下げたくはなかったですね。割れやすいガラスじゃないですが、ここにある“いいもの”を変な力で割ってはいけないんだと、すごくキリキリしちゃってる自分がいた。現場でもどなり出したりとか、泣き出したりとか、『帰りたい』って言い出したりとか……」とのた打ち回るような撮影の裏側を打ち明ける。まさに、激動の日々だったのだろう。
話は日本映画全体のあり方にまで及び「日本映画の習慣の中で、変なルールがあって俳優の邪魔をするのなら、僕は大いに立ち向かいたい。そういったものにとらわれるのが最近とっても嫌で、日本映画のルールなんてぶち壊してしまえと思っているんです。いつも現場でも思ってるし、実際言うときもあるけど、現場に確認用のモニターがあるんだったら、スタッフが皆これにかじりついてなきゃ、映画館で誰も画面にかじりつかないわけですよ。やっぱり“マジック”を常に大切にしてほしい。子役が今すごくいきいきしていて、僕もすごくいきいきできたとか、そういった瞬間を見てほしい。逆に(『沈黙 サイレンス』で組んだ)マーティン・スコセッシ監督はそこしか見てないんですよ」と役者人生に大きな影響を与えた巨匠の名を挙げる。
「例えば俳優に対しての演出でも、水を飲んで『ありがとう』と言うセリフがあったとして、監督によっては『3秒後にこれを右手で持って、この位置まで持ってきてから“ありがとう”って言ってください』ってことが始まっちゃう。だけど、スコセッシ監督に関しては、あくまで僕がやったものに対して、『とてもいい。ただ君の演技を見たときに、3秒後に(コップを持ち)上げて、この向きで“ありがとう”ってことも見えたんだけど、どう?』って言うんですよ。自分がやってほしいことをただ押し付けると、特に俳優は嫌な気持ちになる。でも、認めてもらった上で『その先』って言われたら、俳優たちはその先をどんどん見つけることができるんです。そういう優しさの中での演出というか、彼は何よりも俳優を大切にしている。日本に帰ってきたときにも、やっぱり我々を大切にしてほしいと思いますね」とスコセッシ監督への敬意を語ると共に、俳優としての渇望を熱く訴えた。
浅野の言葉の端々から感じられるのは、“いい作品を生み出したい”というマグマのような情熱だ。思いが強すぎるあまり「(三島)監督に強く当たってしまうときもあって、反省しています」と謝意を示した浅野は「監督は粘り強く僕を見守ってくれましたし、僕がうまくいってないってことが悪いことではないんだなと最後に気づいた。自分がうまくいかないって思うことがあるおかげで、信という役が魅力的になったんじゃないかと思えたんですね。それは完成品を見たときに特に強く感じましたから、試写会のときに本当に監督に謝るしかできなかったです」とこっそり明かす。
そのような経験があったからか、最後に観客へのメッセージを求めると「映画の奥にある“何か”を見てほしいですね。ぱっと(脚本を)読むと、信の悲劇。でも信は、心の中では『なんとかなる』とぼーっとしているはず。それでいいと思うんです。自分1人で背負うものじゃないんだってことを、この映画から感じ取ってほしい」と締めくくった。