「自分を生きるための闘いの物語」エンドレス・ポエトリー kkmxさんの映画レビュー(感想・評価)
自分を生きるための闘いの物語
この映画は、蝿として育てられたアレハンドロが自分の人生を取り戻し、ついに蝶として羽ばたくまでの、苛烈な闘いを描いた戦記モノであり、精神のロードムービーであると感じました。
「自分を生きる」と言うととても簡単そうですが、並大抵の闘いでは自分を生きる実感を得れないのかもしれません。特に、アレハンドロのように親に抑圧され、親の一部のように育てられてしまった子どもの闘いは凄まじいものがあると思います。
そしてこの映画は、マジックリアリズムという手法で、その闘いの凄まじさを余すことなく伝えることに成功しています。
ここで描かれているのは目に見えるような現実の世界ではなく、イメージの世界ですが、これはメタファーではなく、心的現実です。舞台装置とか見えていて虚構を演出していますが、これは表面的な現実ではなく、深層的な現実を描いているサインなのでは、と感じました。マジックリアリズムとはよく言ったもので、もうひとつの現実なんですよね。無意識と直結している天才ホドロフスキーが見えている現実世界。なので、すべてがリアルに感じました。濃厚な血が通っているから、虚さがまるでないのです。ファッションじゃねーんだ、遊びじゃねーんだよ!ってホドロフスキーの叫びが随時木霊しております。
詩という武器を手に、独立戦争に挑んだアレハンドロ。本作では、詩=パンクの印象を受けました。詩とは行為だ、なんてセリフもありますし。
あんな凶悪な父親及び支配的な一族の制空権から逃れるには、爆裂的なエネルギーでメチャクチャに暴れ回って反抗する必要があったのでしょう。ちょっとしたレジスタンスではすぐに鎮圧されてしまう。だからステラみたいなリビドーの権化みたいな女性を必要としたのだと思います。
また、闘いには前線基地と仲間が不可欠。イカれた(イカした)アート仲間の集うサロンや親友の詩人エンリケとの出会いがアレハンドロをさらに一歩前に進ませていますね。
そして繰り返し登場する、「脱ぎ捨てる」イメージ。アレハンドロが脱皮するたびに、より強靭な自分に成長していくようです。また、服を脱ぎ捨て裸になることには、束縛を破り、素の自分(自分を生きている自分)になっていく意味も含まれているように感じました。
なので、ボカシを拒絶しての上映に成功したのは本当に快挙でした。おかげで作品の本質を潰さずにすんだと思います。
しかし、成長しても拭いされない虚しさ。アレハンドロの人生の意味についての葛藤はかなり長く続きます。自分を生きれていないと、確実に虚無で苦しみますからね。
だが、それをついに打ち破る生と死のカーニバルの場面。鏡の中の自分=影との対決のシーンは、自分を生きる上での最終決戦です。そしてついにその闘いに勝利し、自分を獲得する。クライマックスのシーンは、赤と黒の祝祭の凄まじくも美しいイメージと、翼を広げた聖者のようなアレハンドロ。非常に深く感動し、忘れ得ぬシーンとなりました。
そして最後に描かれる大いなる赦し。あれだけ憎み、己を蝿にした張本人である父親を赦す。ホドロフスキーが真に描きたかったのはこれでしょう。
赦しは人類の中で最強の行為のひとつです。ここに至ることができれば、テーマとなっている心的な問題を乗り越えた、と言えるでしょう。ホドロフスキーは自身の作品をサイコマジックと呼び、セラピーと位置付けていますが、このセラピーは大成功ですね。赦される側である父親の表情がとても好きです。なんという安息。赦しは赦される側も解放されていくのだな、と実感しました。
本当に凄まじい作品でした。大傑作と言っても過言ではないと思います。