ジュリエッタ : 映画評論・批評
2016年11月1日更新
2016年11月5日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
生をめぐる感懐。過ぎ行く時の残酷さを静かにしかし容赦なくみつめる
デビュー以来、20本目の長編となる新作「ジュリエッタ」、そのお披露目上映となった今年5月、カンヌでの記者会見の動画を見ると「私の人生は私の撮ってきた20本の映画の中にある」と、創り手としての自信と誇りを示す監督ペドロ・アルモドバルの姿が確認できる。
白髪が時の流れを否応なしに思わせる監督は「過去を振り返るばかりの感傷的な人間ではないつもり。でも若かりし頃を、80年代を、懐かしく思う。そんな気持ちがこの10年間に撮ってきた映画の中には見て取れる」と60代半ばを迎えた心境を率直に吐露していたりもする。同じ率直さで「ジュリエッタ」もまた過ぎ去った若さを惜しむ気持を芯に、忽然と消息を絶った娘を思う母の悲しみの物語を紡ぐ。そうすることで監督の生をめぐる感懐を映す映画を全うする。
それにしても全篇にたれこめるうっすらと拭いがたい霧のような悲しさの魅力はどうだろう。かつてフランコ独裁政権から解放されたスペインはマドリッドの“躁状態”を背景に、「神経衰弱ぎりぎりの女たち」「ハイヒール」と連発されたポップでキッチュで派手派手しいアルモドバル印の女性映画。その象徴的存在だったロッシ・デ・パルマが目の下のくまに隠し切れない疲れと鬱屈をため、ヒロイン=ジュリエッタの行路に射す影を予感させる初老の家政婦役で登場するのも感慨深い。そうやって過ぎ行く時の残酷さを静かにしかし容赦なくみつめる映画は、それを撮った監督の心の今もとくとくとそこで鼓動を刻んでいるのだと思わせずにはいない。
プラチナブロンドの尖った短髪が似合う若き日のヒロインとトウモロコシのひげ然と色褪せた金髪のヒロインの今。別人のように様変わりしたひとりをふたりの女優に演じさせる――いってしまえば老いを殊更に視覚化する配役のむごさも光る。だからこそ最後の歌の甘やかな調べに包まれて微かに浮かぶ希望をめざしひた走るヒロインの車の赤が湖の絶景にとけ込む幕切れが効いてくる。ぽっかりとした夢にも似た明澄が束の間、悲しみの霧を晴らして胸に染みわたる。アルモドバルの成熟がそこに厳然と浮かんでいる。
(川口敦子)