「卓越した美学で描く少女受難の反・宗教画」ウィッチ 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
卓越した美学で描く少女受難の反・宗教画
十七世紀といえばもはや近代であり、中世の魔女狩りからは時代も、そして場所も新大陸だから隔たっているが、入植者の篤い信仰心に基づく現実には、いまだ魔女も悪魔も実在していただろう。
本作はそんな現実に暮らす移民一家の悲劇を、彼らの世界観のままに、つまり宗教的心性の下に描いた作品である。
宗教観の違いから入植地集落を追放された一家は、自分たちで家を建て農地を開墾して暮らしているが、貧困に押し潰されかけている。そのような孤立した一家に、悪魔と魔女は徐々に手を伸ばしてくる。
一人目は生まれて間もない乳児である。長女トマシンが「いないいないバア」をして両手で顔を覆った瞬間、そこにいた乳児は忽然として消えてしまう。乳児は森の魔女に切り刻まれて、その血を魔女が身体に塗り付ける。
二人目は長男。悲嘆にくれる母を置き、トマシンと弟の長男は食料を得るために森に出掛ける。ところが不吉な黒兎が出現すると、馬も犬も騒いでどこかに逃げ去ってしまい、トマシンは気絶、弟は行方不明になってしまう。彼はやはり森の魔女に口づけされ、やがてほとんど人事不省の状態で帰ってくるが、最後に突然起き上がって神の栄光を称える文句を唱えては死んでしまうのだ。
残る家族は五人で、トマシンと双子の弟妹の三人には魔女の疑いがかけられるが、父親が彼らを家畜小屋に閉じ込めると、悪魔と魔女はいよいよ家の中に忍び込んでくる。
閉じ込められた三人の前には魔女が現れ、双子を連れ去る。朝、それを目撃した父親は、悪魔の化身である黒山羊に角で突かれ殺されてしまう。母親もまた悪魔に魅入られてトマシンを殺そうとし、逆に殺される。
残ったのはトマシン一人。すべてを失った彼女は、黒山羊にどうすればいいかと尋ね、最後には悪魔に魂を売り渡す契約に署名させられ、本物の魔女と化してしまうのである。
悪魔や魔女の実在を前提とするホラー映画なら、悪魔たちはもっと邪悪かつ凶暴になるだろうし、一家はもっと彼らを恐れていたに違いない。
また、悪魔や魔女は人間心理の投影に過ぎないという立場の映画なら、悪魔たちは決してその姿を画面に現わさないはずだ。
しかし、この映画はそのどちらでもない。登場人物たちは悪魔や魔女が存在すると信じ、その信仰のままに魔女は姿を現すのだが、恐ろしい超自然的な魔力を揮ったりはしない。彼らは人間世界の不幸を帰責するだけの、いわば信仰の枠内の存在なのである。
魔女が実際に登場するという意味ではホラーに類似しているが、信仰の枠内でしか悪を為さないという意味ではホラーではない。これを踏まえると、本作は一種の宗教ドラマ、少女の宗教的受難劇といったほうがいい。
冒頭のシーンを除いて陽が射すことはなく、どんよりした空の下や薄暗い家や森の中、重苦しい構図と恐らくは再現に拘った十七世紀当時の様々な生活用具の中で、次々に不幸が繰り広げられる。
通してみると、どこにも新しさはないのだが、どのシーンも美しくて見惚れてしまう。とくにトマシン役のアニャ・テイラー=ジョイは青磁のような美しさで、観客を惹きつけてやまない。こうした美学にこそ、本作の価値はあると思う。監督はいわば、一枚の反・宗教画を描いたのである。