「役者は熱演、監督も奮闘してるのにクライマックスの演出が…」聖の青春 ぷらさかさんの映画レビュー(感想・評価)
役者は熱演、監督も奮闘してるのにクライマックスの演出が…
実在の早逝した棋士、村山聖を題材にした作品。ドラマ化、舞台化もしている。
昨今の棋士関連のニュースを見るたび思うのですが、やっぱりちょっと凡人には想像つかないほど、厳しい勝負師の世界。村山聖はこの作品以外にも、複数の将棋作品でキャラクターのモデルになっている人物。
→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/村山聖
棋士に限らずですが、勝負の世界で生き残るだけでなくトップ争いができる人々というのは、それこそ凡人に想像つかないくらい、信じられないくらいの負けず嫌いであり、それでいて偏屈か変人の筈ですよ。元々の才覚がある上に、人並み外れた情熱と努力を傾注できるからこそ、その場にいる。そういう人々がもしただの「いい人」に見えるとしたら、それは彼らが日本人らしく負けず嫌いな面を表に出さないよう(自然と)訓練してきたり、いろんな人たちの視線に晒されることでどう振る舞うか発言すべきか身についているからです。ただこういったことは勝負事の世界では副次的な事であり、本作の村山聖はこうした側面を切り捨てている人物に描かれているので、いわゆる映画的な「好かれる主人公」とは当然違います。
その上で松山ケンイチは相当な覚悟と熱量を持って、彼を演じていることがわかる。話題になった20kg増量というのもその表れの一部に過ぎず、最も驚いたのは後半、髪を切ってからの表情。もはや松山ケンイチの顔ではなかった。
彼に相対するのが、東出昌大演ずる羽生善治。東出はハマり役。正直、彼は台詞芝居に難あり。しかしこの役者の雰囲気・外観を存分に活かした撮り方をした森義隆監督にも、もちろん東出本人にも、大いに拍手したい出来でした。
なのに、なぜクライマックスでくどくどしく、もう見た映像を回想シーンとして入れてしまうのか…。ここがかなり台無しでした。いやいや、大半の観客はそのシーン頭の中で想起できてるから。わざわざ提示しなくても。
こういうところをついつい「邦画の悪癖」と呼んでしまいたくなるんですけど、要は観客を信用してないんですよね。2時間強の映画内で、どう考えてもストーリー上重要だったシーンを、もう客が忘れてると思ってる。だとしたら客が寝てる前提だろと。2時間ドラマじゃないんですから。そう思ってるのが監督なのか、配給会社側なのかは定かじゃないですけど。
役者の熱演を、派手さを抑制した映像が光らせていただけに、大事な場面での演出が残念でした。