絶壁の上のトランペットのレビュー・感想・評価
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奥が深い映画ではないでしょうか。
心臓移植を受けたアオイと臓器提供者であるジオ(臓器提供者=死んだ人)の交流により、ジオの魂が弔われると同時に、アオイが元気になっていく様を描きながら、家族のつながりを訴えている映画です。
空撮で撮った石垣島の自然が美しく、幻想的で、石垣島の風を感じるような映像でした。
脚本と監督と撮影スタッフが主に韓国人で、キャストは日本人+エルジョ(韓国人)で、脚本も韓国人であるハン・サンヒ監督が書かれただけあって、韓国映画を日本人が演じているような印象でした。
心臓移植を受けたアオイは、療養のために石垣島を訪れますが、そこでアオイにしか見えない絶壁の上でトランペットを吹く青年ジオを見かけます。
謎の青年ジオに惹かれていくアオイは、願いを叶えてくれる青いポストに手紙を書いて入れます。映画の中ではアオイが書いた手紙の内容は明らかにされませんが、ジオと仲良くなった日の夜にニヤニヤしながら書いているので「元気になって、ジオともっと仲良くなれますように」という趣旨の手紙を書いたのだと思われます。
しかし、アオイが元気になるには、移植した心臓がアオイの身体になじまなければいけません。心臓がアオイのものになるということは、アオイにだけ見えている幻のジオは消えるということです。ジオが臓器提供者だと知らないアオイは、ただジオと仲良くなりたいと願い、ジオと一緒に海に行って泳いだり、ジオの焼いた魚を食べて、愉しい時間を過ごします。(この時、アオイに「魚を食べないんですか」と聞かれ、ジオが「僕はいつも食べているものだから」と答えるのは、ジオがイルカであることを示す伏線だと思われます)
ジオは亡くなる前、一緒に住む祖父に「夏祭りに一緒に行こう」と言っていたのですが、祖父と出た海で脳死状態になり、祖父と一緒に夏祭りに行くことができませんでした。ジオの海での事故のきっかけを作り、また「一緒に夏祭りに行きたい」という約束を果たせなかった祖父はジオへの罪悪感に苦しみ、ジオが死んだ海で「ジオ、大丈夫なのか?」と呼びかけ続けると、一頭のイルカが現れます。
ジオが死んだ日(=アオイに臓器を提供した日)から最初の夏祭りを迎える日、ジオの祖父はジオが死んだ海に行き、海に向かって謝罪しながら、トランペットを投げ入れます。一頭のイルカが涙を流すような、納得したような表情で祖父を見て、トランペットをと一緒に去っていきます。
(イルカになったジオの魂が弔われたと思われます。)
祭りの前日、アオイはジオの作った手料理(牡蠣)を食べ、トランペットのレコードを流して、幻想的な雰囲気の中、2人はダンスを踊ります。アオイにあなたは誰?と聞かれたジオは「僕は僕であり、あなたでもある」と答えます。
その後、アオイは意識を失って倒れます。その夜、眠っているアオイの元をジオが訪れ、「見せたいものがある」とアオイを外に連れ出します。
ジオが作った電飾の光をアオイに見せながら、「今を大切にしてほしい、覚えてくれているだけでいい」とジオはアオイに言います。これを最後にジオは姿を消します。(アオイが心臓移植手術を受ける際に手術台で見てからずっと気になっているのが「光」で、「すべてはあの光を見た時から始まっていたのかもしれない」とも言っており、ジオも光が渦巻く海で脳死しており、2人を結びつけるものの一つとして光が描かれていると思われます)
翌日の夏祭りの日、アオイは夏祭り会場で東京で恋人だったコウイチに抱きしめられると、激しい心臓発作が起き、うなされながら「トランペット・・・」とつぶやき続けます。(心臓に宿っていたジオの魂がアオイに同化し、ジオがアオイになりつつあるのだと思われます。)
同じ時にアオイの母は、臓器提供者であるジオの祖父を訪ね、ジオのことについて教えてほしいとお願いします。
心臓移植前は大好物だった牡蠣を食べてアオイが倒れたため、臓器提供者の生前のアレルギーなどを教えてもらう必要があり、アオイの命がかかっているので必死に懇願します。ジオの祖父がジオについて語る中「トランペット」という単語を発すると、アオイの母は「トランペット!それです!!それは今どこにあるのですか?」と祖父に詰め寄り、海にトランペットを探しに行きます。
アオイを思う母の気持ちが通じたのか、一頭のイルカがトランペットを持ってきて、空中で軽快に一回転し「僕はもう大丈夫」と語るかのように元気に去っていきます。
アオイの病室にトランペットを届けた母に、「お母さんは私の家族だよね。何でも聞いていいし、悲しいときもそばにいてくれて、ケンカしてもすぐに仲直りするよね」とジオが家族について語った台詞をアオイが語ります。(ジオが完全にアオイに同化したと思われます)
移植された心臓はアオイの身体になじんだのか、アオイは元気になっていきます。
アオイが石垣島を発つ日、幻のようなジオとの出来事を思ってか、あの時聞いたトランペットの音は、イルカの鳴き声だったのかもしれないと回想する中(最初のジオのシーンではトランペットの音にイルカの鳴き声がかぶせてあります)、母から「あなたに心臓を提供したのはジオという青年だ」と聞かされ、アオイはジオが亡くなっており、ジオの心臓が自分の中にあることを知ります。
そして、ジオを忘れないこと、毎年石垣島に帰ってくることを誓います。
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「トランペットを吹くとイルカが寄ってくる」というジオの言葉を聞いて「海に行きたい」とアオイは言ったのに、海に行く日にジオは肝心のトランペットを持って来ず、人参に穴を空けて笛にして吹いていて、「???」と思いましたが、海でイルカになっているジオはトランペットを海に届けて欲しいと願っているのに、自分で海にトランペットを持って行ったら物語が終了してしまうので、あえてジオ自身にトランペットを海に持って行かせることはさせなかったのかなと後で思ったり。ジオがトランペットを吹くときはいつも陸上だったし、人参笛に吹き口とかパーツまで付けてて、準備してきた感じだったので。穴を空ける型紙みたいなのまで映してたし、トランペット忘れたんじゃなくて「あえて」ですよっていうメッセージなのかな。
死んだ人が空にいる的感覚(亡くなった人の魂が薄く広がってあらゆる場所にいるとか、万物に神が宿る的な感覚)は日本人には違和感がありませんが、その感覚がまったく理解できない国(魂や神が唯一の存在だと思っている人達)もいると聞きます。死んだ人の魂が、イルカにも心臓にも分散されるという死生観やシナリオを書いた監督の発想はどこから来たのだろうと思ったり。
また、アオイの母を演じる大塚寧々さんの鬼気迫る演技が、本当に娘を思って、ただただ本能に動かされている母親のようで感動しました。アオイの母は、広い海原に泳いでトランペットを探しに行こうとするのですが、娘を救うという強い意志で、普通に考えたら無茶なことをしているんだなと感じて、泣けました。
アオイにしか見えないジオを演じるエルジョは、目の前にいるアオイをちょっと眩しそうに見ているようであり、どこを見ているかわからないようでもあり、長いサラサラの前髪が綺麗な目にかかって風に揺れる姿が幻想的でした。片言の日本語も実在しない感じにつながって良かったと思います。また、ずっと穏やかで優しいジオの中にも、海の事故の前のジオはイキイキとした爽やかな青年で、アオイにしか見えない死後のジオは透明感のある少しさみしそうな印象で、その対比も良かったです。(幻想の)ジオのシーンでは、いつも独特のゆったりした時間の流れを感じて、漂うような存在感を感じました。
ジオのアップが多いのですが、ジオの優しくて知的でしっとりした目がイルカの目のようで、ジオと呼びかけると現れるイルカと、アオイの前に現れたジオが同一人物であることも伝わってきました。海のシーンでも、生前は酸素ボンベをつけたりウエットスーツを着て海に潜っていたのに、死後のジオは軽装で素潜りになっていて、アオイに料理を作ってあげるために牡蠣を海底取りに行く時も、本物のイルカのように力の抜けた泳ぎで、息をするのを忘れたように海の中で自在に動いていて「あぁ、ジオはイルカなんだな」と自然に思えてきました。(些細な事ですが、ジオは和包丁のような包丁を使って魚をさばくときに、引いて切るやり方ではなかったので、そんなところに韓国を感じたりしました)
梅雨が明けて本格的な夏が来る頃、イルカの悲しげな鳴き声が聞こえてくるという、何度も朗読されるイチローさんの絵本ですが、なんで子供向けなのにこんなに悲しげな内容なんだろうと思いましたが、石垣島のように海が身近な環境では、夏に海で事故に遭った人達がもっと身近な存在で、私達の夏に対する感覚とは違っていて、夏の始まりはただ楽しいだけではなく、明るい夏の中にも切なく悲しい思いが重なっており、島の人達はその思いをイルカの鳴き声に重ねており、その複雑な思いを絵本にして、海は楽しいけど危ないところでもあると、子供たちに伝えているのかもしれません。
イチローさんの娘のまりちゃんは、石垣島に住む一般の女の子を起用したとのことですが、映画を撮り始めた時は普通の女の子だったのに、撮り終わるころには女優の顔になっていたと辰巳さんが舞台挨拶で言われていて、確かに、最後のシーンでの顔つきが全然違うとか、そんな点も楽しめました。
家族のつながりを訴えるスト―リーでありながら、両親と子どもという一般的な「家族」は出てきません。登場人物には「父親」は出てこず、唯一肩書きとしては「父親」であるアオイの叔父イチローも本当の父親ではなく養父という設定で、妻もいないため、実際にやっていることはマリの母親代わりです。アオイは母親しかいないし、ジオは両親を海の事故で亡くし家族は祖父のみ。ジオが海の事故で亡くなる際も、少年を海に連れ出したジオの祖父(責任者・保護者役=父性の象徴)の判断ミスにより、ジオは事故に遭いました。
母親の愛は力強く描かれているのに対し父性は出てこないことから、シナリオを書いた監督には父性への不信感があるのかなと感じたり、同時に家族の形にこだわらず、お互いが「家族だ」と思えば、それは「家族」なんだというメッセージなのかなと思いました(アオイの彼氏のコーイチもアオイの母に「あなたも家族なんだから」と言われて、はっとしながら「家族・・・」とつぶやいていたことからも)
臓器移植をすると臓器提供者の記憶が移植された人に移ったりすることがあると、実際に聞いたことがあります。
臓器移植をすると、自分以外を攻撃するという免疫の本来健全な働きにより移植された臓器を排除しようとする力と、新しい臓器の機能を受け入れ生きようとする生命力のせめぎ合いが体の中で起こるわけですが、体の中だけではなく、臓器提供者の感情や記憶と、移植された人の感情の折り合いもつけないと、本当には他人の臓器を受け入れることはできないのかもしれません。
正直、エルジョが見たくて行った映画で、そんなに期待していませんでしたが、想像していた以上に感じるところが多く、おもしろかったです。
私はふだん映画をあまり見ないのですが、映画に詳しい人が見たら、もっとたくさんの意味や伏線に気付けるのかもしれません。
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