「彼女の「存在」は変わらない」ダゲレオタイプの女 ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
彼女の「存在」は変わらない
黒沢清という監督は、生者と死者の境界を曖昧に描いている事が多い。
観ている側にとって、本当にその人物が今そこに存在しているのかと疑わせるような、不穏な演出がとても優れている。
回路、岸辺の旅、叫など、多くの作品で見られ、それこそが黒沢清の求めているテーマだと言っていいかもしれない。
そういう意味では、この作品も間違いなく「黒沢映画」なのであって、こんな映画を撮れるのは恐らく、世界でも黒沢清ただひとりしか居ないだろう。
要するに「死」とは何なのかという事である。
まず、マリーは「植物」に思い入れがあるように描かれている。
この「植物」というものこそ、屋敷という地に根付き、ステファンによって身動きの取れない母子の暗喩そのものである。
植物のように枝分かれした拘束器具に繋がれ、彼女達は芸術家の言いなりになり、苦痛に耐えていた。
昭和の日本家庭のような亭主関白ぶりである。
そこから逃げ出すにはどうすればいいのか。
「死」しか無いのである。
少なくともこの作品では、そういう選択肢しか無いように描かれている。
この死者の描き方がまた、いつものように良い。
シーンが変わった時、またカットの始まりにおいて、死者と生者の視点がズレているのだ。
例えばシーンの始まりでマリーが居れば、ジャンは後から画面内に入り、ジャンが画面外に話しかければ、マリーがスッと画面内に入ってくる。
観ている側からすると、そこに話している相手がいるかどうかわからない、宙に浮いたような不穏な時間というか、奇妙な時間のズレがあるのである。
実際に居るか居ないかの問題ではなく、そういったズレた演出が素晴らしいのだ。
だからこそ、彼女の「不在」が見る側に明確となった時のやるせなさも際立つのだろう。
得意の長回しもまた、不穏さを引き立てている。
不穏さと言えば、いつものような揺れるビニールカーテンであったり、芸術家のアトリエとは言い難い、廃墟のような空間であったり、暗闇から人がぼうっと現れる場面の照明の凄さであったり、ワンカットで見せる痛々しい落下であったり、黒沢演出の満漢全席だった。
また、左右に揺れるランプ、カサカサと舞う落ち葉など、どう見てもベルナルド・ベルトルッチの模倣としか思えない演出があった。
余談だが、前作クリーピーにも、死=胎児(ラストタンゴ・イン・パリ)というイメージや、ラストシーンで舞う落ち葉(暗殺の森)など、ベルトルッチ演出が使われている。
別にオマージュ自体はベルトルッチだけでは無いし、クリーピー以外でも使われてはいるが。
だが、フランス映画でここまでの作品が作れたのなら、次はベルトルッチの本場イタリアで映画を撮ってもらいたいものだ。
この作品と同様の、とてつもない傑作を撮ってくれるに違いない。
ゼリグさん、浮遊きびなごです。
お薦めありがとうございます!
黒沢監督と作風近いのなら是非是非
ベルトルッチ作品拝見させていただきますよ。
(ベルトリッチと打ち間違った時点でもう
無知っぷりバリバリな訳ですが(苦笑))
『暗殺の森』は名作……と聞いてますので(笑)、
まずはそこから鑑賞してみますね、楽しみです。
また長文にならないようこの辺りで――。
次回レビューでお会いしましょう、では!
ゼリグさん、浮遊きびなごです。
コメントありがとうございました!
黒沢監督作品は色々考察せずにはいられませんねえ。
写真≒土地というのは、土地に水銀が染み込む
場面からの連想でした。『叫』でも土地と過去
と幽霊は密接なものとして語られてましたし……。
あと僕は怪談話が昔から好きなので、まず最初に
幽霊に精気を吸われる『牡丹灯籠』が浮かんで、
あれ? けど本作みたいにもっと優しく終わる
怪談あったよなと考えたときに、「……雨月……
死んでないんだ……(彼が)」とシン・ゴジラの
塚本晋也みたくポンと掌を叩いたという流れです。
しかし、カメラワークの違和感に注目してると以前
も言われてましたが、その点さすがゼリグさんですね。
マリーとジャンの会話で居心地の悪さというか
隔たりを覚えた理由が、ゼリグさんのレビュー
を読んですっきりしました。
(既に共感票入れさせてもらっていました)
なお自分はベルトリッチ作品を1作も観ておらず――
小津安二郎も『東京物語』しか観ておらず――
階段落ちは『風の中の牝鶏』という作品からなの
ですか? 調べてみるまでその作品名すら知らず。
いやはや色々観られてますね……。
本当、脳ミソを刺激される良い映画でした。
監督には仏・伊と言わずもうヨーロッパ行脚
して幾つも映画を撮ってほしいものですね(笑)。
返信お気になさらず。また今度!