「実験は単純だが、奥が深い」アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
実験は単純だが、奥が深い
イーストウッド監督、トム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」を思い起こさせるような、静かな、大人の映画である。
何故邦題に「アイヒマンの後継者」という文言を入れてしまったのか。アイヒマンの記録映像が短時間流れるが、作品はアイヒマンとはほぼ無関係だ。そもそもミルグラム博士は後継者でも何でもない。それに「恐るべき告発」をしている訳でもない。心理学の実験をして、論文を発表しただけだ。「アイヒマン」だの「恐るべき」だのといろいろな言葉を詰め込むよりも原題の通り「実験者」としたほうがよほどましだった。キャッチ―なタイトルにしたいという下種な下心が透けて見える邦題のせいで、却って観客を減らしたかもしれない。せっかくいい映画を配給しているのだから、志を高く持ってほしいものだ。
映画は原題の通り、実験を行なったミルグラム博士についての話である。科学者らしく客観性と統計確率が保たれるように工夫しながら実験を繰り返し、結果を発表した。実験の方法について、道徳的、倫理的な批判が常について回るが、実験の意図は道徳や倫理よりもずっと上の次元にある。
世界観は非常に哲学的だ。曰く、人間の行なう社会的行為の多くが、命令と服従の関係によって成り立っている。戦争も大量虐殺も、普通の人間が、上の人間から指示されたことを普通に実行しただけで、日常の仕事と何ら変わることはない。指示に従うことは人間の基本心理であり、拒否できる人は常に少数派だ。命令と服従がいたるところに存在するなら、この世界は平等ではない。そして自由でもない。自由と平等を民主主義の基本原理とするこの世界では、誰もそのことを認めたがらない。人間が自由を手に入れるのはいつの日だろうか。
主役であり語り手でもある博士が、しばしば観客に直接話しかける。シニカルなその語り口は、見る者を飽きさせない。
実験は単純だが、実験結果の因果関係を考察すると、人間社会の成立時にまでさかのぼることになる。道徳や倫理が出現する遥か以前にまでだ。非常に奥が深い作品であり、博士の問題意識は実験の様子と重なって、いつまでも心に残る。