はじまりへの旅のレビュー・感想・評価
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お父さん!
森の中で自給自足。サバイバルな毎日を送っている家族。母が自殺してしまい、子供達と葬式に乗り込むっていう話、そして、母は火葬を希望していたから、土葬を掘り起こして、家族で燃やして、空港のトイレに流してしまうっていう話。
ストーリーを纏めたらこうなってしまうけど、本当に感動した。
ボロ泣きもボロ泣き。久々に頭痛くなるくらい泣いた。
ハンカチティッシュを忘れてしまった為に鼻水が物凄いこたになってしまった、、。
映画館に行くのに忘れるなんてバカでした。
コンピューターやゲーム、テレビ等には全く縁のない、いえば変わり者になってしまっているヒッピー家族。
だけど、芯が通った父の行動や言動が胸打つ。子供達も一時反発しそうになるけど、父の事を本当に愛していて戻る。
父も義父等からの助言を受け、気持ちの変化が起きる。その時の父の葛藤する表情が物凄くよかった
説明が難しすぎて上手くいえないけど、本当に感動した。
子供の気持ちもわかるし、父の気持ちも、妹の気持ちも、義父の気持ちもわかる。
だからこそ苦しいし、優しい気持ちになれる!
また見たい。そしてDVD欲しい
ポリシー貫くって時々すごくハード
すごく好み。作品のテーマとしてある「"ふつう"と"自分のポリシー"の折り合いに悩む人間」「自省という在り方」の描き方が好き。あと、色合いがオシャレ。
チョムスキーとか毛沢東主義とかエスペラント語とか焚き火の回りで読んでた本(タイトル一個も覚えてない…)とか権利章典とか、彼らの価値観の裏づけになる小ネタがいっぱいあったんだけど、私はどれも碌に知らないので、その辺をわかってたらもっと楽しめる範囲が広がったと思う。
回想でしか登場しない、母・レスリーは、森から出てふつうに子供を育てるべきか、森に篭って自分たちが大事だと思う事を徹底的に習得させるべきか、その間で苦しんでたのだろうなと思う。
ベンもレスリーも無思考な右倣えが嫌いで、ふつうに暮らすのも苦痛だし正しいとも思えない、けれど一方で完全に世間と切り離されて生きる事はとても難しい。子供にとっては強い肉体と深い洞察を育む環境は素晴らしいけど、選択肢を狭めてもいる。
ベンの教育方針は民主的とも独裁的とも取れるし、良いとも悪いとも取れる。
レスリーの死因や性知識や、高度な物理学や哲学のように、大人が"まだ早いから"と子供から遠ざけるような情報でもストレートに与える点は、自由と議論を尊ぶ立派な父親のように見える。そうかと思えば、コーラを"毒の水"と誤魔化したり、ふつうのお祝いをよく知らないレリアンにクリスマスがチョムスキーの誕生日に勝る理由を説明させて議論を装った異論の叩き潰しをしたり、独裁的な側面もある。
中盤で「ロリータ」を読んでいるキーラの感想は、ベンにも当てはまるなと思う。間違いなく深い愛情はあるけど、判断力の無い子供を偏った世界に切り離してる。一方で、ふつうの育て方なら本当にそれは子供の権利を侵害していないのかっていう疑問も頭をよぎる。資本主義やキリスト教やその他膨大なふつうを押し付けて、それ以外の生き方を否定するのだとしたら、それだって子供の選択肢を奪っている。森に子供を隔離する親も褒められたものじゃないけど、娘の希望を無視してキリスト教式の葬儀を強行するような親も、難しい事柄は子供から隠して権利章典も碌に学ばせられない親も、どれも省みるべき点はある。
ベンがただの毒親では終わらなかったのは、自省が出来たところ。ボウやレリアンから反発を受けて、ヴェスパに怪我をさせて、レスリーの苦悩を手紙から読み取って、自分の在り方を問い直せた。ベンが今までを否定した事で、子供は再び選択の機会を得、自発的にやりたい方へ進むことができた。科学が宗教と違う点は、科学に「絶対」が無く常に自己否定の可能性を内包してる点だと聞いたことがある。ベンは科学と論理の立場で、家族の自由を確立したんだなと思う。
キャッシュ家ほど極端な例は珍しいけど、世間一般と自分との距離の取り方で悩むって、多くの人が直面している事だと思う。何もかも右倣えは窮屈で仕方ないけど、世間から指図を受けない世界へと完全に引籠もるのも難しい。思春期に「普通ってなんですか?!!!?!??!??」ってキレたことあるし、正直今でもそう思う時ある。火葬がいいって言ってるのに、自分以外の人間や下手したら顔も知らない赤の他人から、キリスト教の土葬が幸せって決めつけられて押し付けられる。議論の余地もなく。こんなの屈辱以外の何物でも無い。葬式に超オシャレなヒッピースタイルで乗り込むシーンとか、墓を掘り返すシーンとか、トイレに遺灰を流すシーンとか、粛々とロックで、観ていてとても良い気分だった。
キャッシュ家が大変なのはこれからだな、と思った。森から出て、人に交わるようになった子供達やベンは、"自分の哲学"と"世間一般のふつう"の間で、折り合いをつけなきゃいけない。ボウが言ったように「本で読んだ事以外何も知らない」状態で、未知の"ふつう"と適切な距離感で付き合わなきゃならない。でも、サバイバルと学問で身についた基礎力で、なんとかなるんだろうなと思わせるラストシーンだった。
彼らの生き様をずっと見守っていたくなる
シカを狩り森の中で鍛え焚火のまわりで勉強する家族、あらすじと予告編で分かっちゃいたけど実際スクリーンの映像で見るとやっぱり面白い。
父と6人兄弟それぞれ個性的であり純粋でたくましくて、もうそれだけで魅入られる。
母親の自殺がきっかけになって森からニューメキシコへ向かい、都内の人間と交わる家族。
自然界でたくましく生きてきた人間と社会のルールに従って生きてきた人間、価値観の違いが強く表現されてた。
多分どちらも正しくて正しくないんだと思う。
自分の力で生き抜き、考え、学びの喜びを知る生活って人間本来の姿だと思うし、そう生きる姿は美しく見える。
でもそれだけじゃやっぱりだめなんだと。
学校で集団の中で学び、社会に出て働いてお金を稼ぐいわゆる普通の生活って実際必要だし人間の成長に結びつくはず。
この映画の父親ベンは面白いけど偏っていたと思うし、でもそれに気付くことができて良かった。
子供達も自分の生き方を自分で選択して、結果ちょうどいいところに収まったんじゃないかな。
ヴェスパーが屋根から落ちた時はもうどうなるのかと気が気でなかったけど、森で鍛えていた結果か大事に至らず安心したし、反抗期気味のレリアンもうまく和解できて良かった。
母親の描写がかなり少なかったのは気になった。
子供達と母親が接してる場面が無かったのでイマイチそこの絆の強さが伝わってこなかった。
母親が精神病で苦しんでいたり、両親が子供達のことで色々揉めていたりしていたのは説明されていたけど実感がないので観てる側からすると唐突に感じてしまう。
それでも家族で愛し合っていたことは分かるし、最後の火葬のシーンなんて倫理的にどうなのって思いつつ歌と演奏も相まってすごくジーンと来ちゃった。
とにかく色々な人に共感できた映画。
コメディ要素は多くて笑えるしほっこりするんだけどシリアスでもあって
現代社会への風刺やナチュラリストへの風刺、家族のあり方や人生どう過ごすか、色々グサグサ刺さるものも多かった。
今の私に力を与えてくれる、観て良かったと思える映画だった。
あたりまえがあたりまえじゃない
一般的にいえばほんとに変わった家族の物語。
父はほんとにスパルタで厳しい父だけど人一倍子供達を思う気持ち、愛がある。
例えそれが”普通じゃない”形だったとしても。
父は真正面から子供達と向き合っててそれが子供達には伝わってる。 まさに親子愛ってやつかな笑
普通に感動したし泣いた。
でもまさか母が残したユーモアある遺言書をそのまま実行するとは思わなかった!ほんとなかなかぶっとんだ家族だけど、そこが私たちに新たな価値観を教えてくれる。
”人間は言葉じゃなくて行動で決まる”という言葉がでてくるがこれは私的にだいぶ響きましたね。
みんな違ってみんな良い。けっこう前向きになれる映画でした。
よくあるストーリだけど
ストーリー展開が面白い映画
ほとんど事前の情報なしに観てたので冒頭のシーンであっけにとられた。
笑いどころもあり、シリアスなシーンあり、考えさせられることもあった。
いわゆるロードムービー的な展開から子供も親も学ぶ、また見たい映画
アナキストの教育は正しいか?
ストーリーは
ベンとレスリーは、ノーム チョムスキーを信奉する(詳しくはアナルコ サンジカリスト)でヒッピー。現代社会から離れ山深い森の奥地に家を建て、自給自足の生活をしながら6人の子供を育てている。7歳から18歳までの3人の男の子と3人の女の子たちは、学校に行かずベンとレスリーから教育を受けている。
ところが 母親のレスリーは、バイポラ躁うつ病と精神分裂症を併発し、治療のため、山を下りて実家に帰ったところで、自ら壁に頭を打ち付けて死んでしまった。実家の母は、レスリーの葬儀は、教会で5日後に行われるという。ベンは子供たちに事実を告げるが、年少の子供達は、自分たちの母親の死を「理解」できずに居る。ただただママに会いに行きたいと主張する子供たちを前に、ベンは自家用バスに子供たちを乗せて、山を下り、妻の実家の教会に向かう。五日間あれば、バスでたどり着けるだろう。
レスリーは遺言で、自分が死んだら火葬して、その火の回りで子供達は歌を歌い踊って楽しく過ごして見送って欲しいと書き残していた。ベンは妻の意志を尊重するために、教会での葬儀と埋葬を、是が非でも中止させなければならない。
バスで移動中6人の子供たちは、初めて森の生活から下界に下りてきて、何もかもが驚きの連続だ。街では肥満体の人々ばかりなのを見てあきれ、ホットドックを食べさせるレストランのメニューに驚愕し、(犬を食べるのか)、18歳の長男はテイーンの女の子にナンパされて、思い余ってプロポーズしてしまうし、てんやわんやだ。レスリーの兄弟家族の住む家に寄っていくと、子供たちと同じ年頃のいとこたちが、知性のひとかけらもなく凡庸な事を恥じることもなく、グダグダとビデオゲームに夢中になる姿に、カルチャーショックを受ける。とうとう五日かかって、たどり着いた教会では、今まさにレスリーの葬儀が行われ、墓地に埋葬されるところだった。そこに6人の子供たちを連れたベンが闖入して、レスリーの棺に手をかけて、教会での葬儀はレスリーの遺志に反すると主張する。しかし、ベンと子供達は、たちどころにガードマンによって教会から締め出され、レスリーは彼女の両親、親族の意向通りに教会から墓地に移されて埋葬されてしまった。
埋葬の後、6人の孫たちに、初めて会った祖父母は、「このヒッピーくずれが、社会と縁を切って、祖父母とも親戚とも合わせずに、森に入り、子供達を私物化しているのは児童虐待で、立派な犯罪だ。警察を呼ぶ、弁護士を呼んでベンが子供たちと会えないように法的処置を取る、」と怒り心頭で、ベンを非難しまくる。一方、次男は、母親の死を受け入れられずにいて、その悲しみと怒りから、おじいさんの言うことに共鳴して、さっさとおじいさんの家に移って来る。祖父母は子供たち全員を引き取って、きちんと教育を施して責任を全うしたい、と申し出る。大きな屋敷、広い安全な環境、生活するのに何の心配もない裕福な家庭。ひととき、子供たちが祖父母に大切にされて、楽しむ様子を見てベンは、子供達を手放して一人で山に帰る決意をする。長い髪を切り、ひげを剃りたった一人になったベン。自分の教育方針は間違っていたのか。
しかし、6人の子供達は、バスの床下に隠れていたのだった。戻ってきた子供達とベンには、しなければならないことがある。墓地から「ママを取り返す」のだ。墓地を掘り返し、棺をバスに乗せ、子供達はママをしっかり抱きしめてお別れを言って、遺言通りに火葬した。ママの言った通りにママが灰になるまでみんなで歌を歌い、ギターをかき鳴らし、踊り、詩を読んでママを見送って灰を’空から撒くことができた。
というお話。
ニュージーランドを旅した時、オークランドから2時間ほど車を走らせた海岸沿いに、ベトナム戦争の嵐が吹き荒れた時期に、アメリカから兵役を拒否して逃れて来たヒッピーたちが移住してコミュニテイーを作っていた地域を通ったことがある。海に向かって無限の広がりをもった、小さな島々が散らばる美しい土地だった。当時アメリカは徴兵制があったから兵役拒否は、国辱者の「極悪犯罪者」だった。彼らを受け入れる側も、逃げてくる側も「反社会的、凶悪犯人」として弾圧された。今では信じられないだろうが、この時期、長髪にするというだけで過激派レッテルが貼られ、社会は徹底的に排除した。今でこそヒッピーは長髪、ひげ、奇妙なゆるい服を着て、花束を機動隊に差し出したり、素裸になって抱き着いたり珍妙な光景ばかり面白おかしく話題にするが、彼らとて銃を持った国家店力を前に命懸けの反戦活動をしていたのだ。
尊敬する作家、シオニール ホセは、著書「民衆」の書き出しで、「ぼくの名はサムソンだ。ぼくは長髪だがそのこと自体、別に何のシンボルでもない。ジェス神父に注意された時、ぼくはキリストも髪を長くしていた、と言い返した。」 といっている。初めて、この本を読んだとき、マルコス戒厳令下で、出版禁止、執筆の道も弾圧で絶たれた闘士 シオニール ホセの言葉に、思わず涙が込み上げた。長髪は明らかに反体制反政府を表示する意味を持った時代だったし、反戦活動家はとても孤立していたのだ。
この映画は、国の教育システムも、社会の規律も、市民としての義務も権利も放棄して、6人の子供を自分のルールで育てている無政府主義者でヒッピーの家族のお話だ。
ベンとその子供達は、キリスト教を完全に否定する。クリスマスを祝わずに、ノーム チョムスキーの生誕日が祝日だ。お祝いに子供達は父親から特別なプレゼントが与えられる。一人一人が父親ベンから手渡されて感謝感激する贈り物は、弓矢だったりよく切れるナイフだったりする。キャプテンであるベンは子供達にエスペラントを含む4か国語を教えた。森の中で狩猟に行き、獲物を弓矢とナイフで殺し解体して食べ、皮を服や靴にする。山を開墾し畑を作り自給自足の生活をする。生き残るのに必要な体力の基礎をつくる為、朝から山を駆け巡り、岩登りを学び、泳ぎを覚える。幼いうちから読書の喜びを体験し、常に学んだことを言葉で表現できるようにし、言葉で表現するだけでなく絵画に描き、詩を読み、音楽にして表現する楽しさを家族全員で分かち合う。
10歳に満たない子供が、4か国語を駆使し、議論が白熱すると思わず皆がエスペラントでやりとりしていたり、アメリカ合衆国憲法を諳んじて言えて、ノーム チョムスキーを引用しながらファシズムを批判するかと思うと、自分で殺した小動物の毛皮を剥いで帽子にして、おまけにバッハを愛好する。なんとも なまいきでくすぐったい。
それにしても、どこまで子供は親のものだろうか。
子供は親のものでも親のペットでもない。現実には親が子に教えられることはそんなに多くはない。親がどんなに優れていても、子供にすべてを伝えることはできないし、子の方でも親の限界を早くから気付いて自分から親を乗り越えていくものだ。
人間は社会的動物だ。アーノルド ロレンツは、他の哺乳動物は生まれてすぐに立ち上がり乳を飲むのに比べて、人は未熟児状態で生まれて、親だけでなく社会によって育てられて成長する特殊な動物であると説いた。私たちは子供を産み、保育園、幼稚園、学校などで集団教育を受けさせ、社会の中でスポーツや音楽を楽しみ、子供の成長を見守る。子供達は親からよりも同じ子供達や、社会の大人たちから多くを学んで大人になる。親は子供の教育のほんの一部に関与するだけだ。子供が親の私物でも、ペットでもあってはならないのだ。
ママなんかもう要らない。うるさい、あっちに行って。と子供が言ってくれるようになることを、親は喜ばなければならない。親の介在を必要としなくなるまで子が成長してくれたと理解して、心から喜び、子を祝福しなければならない。そして、できるだけ子供をそっとしておいてやることだ。次に、ちょっとママ手伝って、と自分から言ってくるまで、辛抱強く黙って待つことだ。これが子育ての極意だ、などと言うことは間単だが、実行は難しい。現実には、反省することしきりだ。子育てより子離れのほうが難しい。親はいつも子供を手助けしたいと願い、子供が転べば走って行って助け起こし、子供に良いと思うことを押し付け、輝かしい将来を実現させてもらいたいと願う。あふれる愛情を止めることができない。でも、だからこそ、肝に銘じて子供は親のものではないことを常に認識していなければならない。
父親が一人で6人の子供達を人里離れた森の中で学校に通わせることを拒否して、すべての学問を教えることはできない。また、そんなことをしてはいけないのだ。
この映画は、おとぎ話と言える。
お伽噺として見れば、この映画はとても楽しい。6人6様の知的で個性的な子供達が、実に生き生きしていて魅力的だ。実際、映画撮影に入る前に、森でみな共同生活をして、本当に家族の様に互いがすっかりなじんでから、映画を撮り始めたという。アメリカ、カナダ、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアから集められて役を演じた選りすぐりの子役達が、キラキラと輝いている。
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