劇場公開日 2016年10月15日

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「「三浦大輔」を採用した映画」何者 labyrinthさんの映画レビュー(感想・評価)

2.0「三浦大輔」を採用した映画

2017年5月31日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

 原作、朝井リョウで監督、三浦大輔なので、早稲田出身のくくりとも言えるが、そんなことはどうでも良いだろう。要するにこの映画は、売れた原作で持って三浦大輔(劇団ポツドール主宰)をメジャーに押し上げようとする意図をもって作られた映画と言えるだろう。だが、その試みは、完全なる失敗に終わった。

 三浦大輔の舞台を原作とした『恋の渦』は、無名の役者を使い、大根仁が撮ったのだが、これは全然話題にならなかった。DⅤDレンタルでは、大根のネームバリューからか、10本以上が棚に並んでいたが、どう考えても多くの人の目に触れたとは思えない。

 逆に自分の舞台を原作として自ら監督を務めた『愛の渦』は、結構話題になっていたはずだ。と言うのも、門脇麦が完全ヌードを披露しているし、見知らぬ男女がセックスするためだけに集うハプニングバーを主題にするあたり、思い切りの良さを感じさせもするからだ。しかし、DVDレンタルでは2本しかなく、なかなか借りることが出来なかった。まあ、この内容では大売れすることはないのだが。

 この二つの映画に共通するのは、舞台が限定された室内に限られていることである。また、そこで展開されるのが、集団の中での不和というか蹴落としあいと言うのも共通している。従って、これは三浦の十八番のテーマと言う事なのだろう。この三浦の特徴を目ざとく見極めた映画関係者が、似た主題をもつ『何者』に三浦を抜擢した、と言うのが私の見立てである。

 ではなぜ、その試みが失敗したのか。正直、私にとってそんなことはどうでも良いのだが、取りあえず分析してみよう。三浦の上の二つの映画に共通するのは、「下衆さ」である。二股を掛けあったり(『恋の渦』)、ハプニングバーに行くこと(『愛の渦』)は、「下衆」以外の何物でもないことは、誰の目にも明らかだろう。だが三浦の特性はそれだけで終わっているわけではない。と言うのも、実はその中に、「純粋」さを一滴もたらすと言うのが、三浦の真骨頂だからである。「下衆」さと言う雑草の中に咲く、「純粋」さと言う一輪の花、この対比が、彼の特性を際立てる重要な要素となる。

 もう大体わかると思うが、この『何者』においては、「下衆さ」が全然足りないのである。確かに仲間で集まっているのに、ツイッターで悪口を書くのは「下衆」なことではある。しかし、別にそんなことは大したことではあるまい。物事がうまく運ばない人が、人の悪口を言ったところで、それは負け犬の遠吠えと言うに過ぎず、誰でも聞き流してしまう程度の発言でしかない。それは言ってみれば、その人の純粋さと表裏一体とも言える。だから、この下衆さによって純粋さが際経つ、と言う構図は成立しない。これが失敗の根源だ。

 そもそも、どの人物にも私は純粋さも下衆さも感じなかった。それは、キャラクターの描き方が中途半端である事が最大の原因だろう。有村の演じるキャラが、突然岡田のキャラに怒るシーンがあるけど、あれはなぜ怒っているのか全然分からない。正確に言うと、無理やり展開上怒らせているようにしか見えなかった。あそここそが、純粋さ(有村)と下衆さ(岡田)の対比のシーンでもあったのだろう。しかし、一皮むけば皆同じような立場・考え方なので、観客からはその対比が見えず、作者だけが対比を意図してしまった結果、あの謎のシーンを招いてしまったと言えよう。

 そもそも就職活動と言うのは、どんぐりの背比べみたいなもので、映画の題材に向くもんじゃない。若者に個性を求めた所で、そんなものは「兆し」にすぎない。せいぜい性格をみるぐらいのもんだろう。明確な目標を持っているなら別だが、そんな人はこんな就職活動は最初からしないだろう。どう分析してみても、「就職活動」そのものに、魅力などありはしない。それが分かっていたからこそ、三浦は劇団と言う要素を、この映画に盛り込んだのだろうが、劇団そのものは決してこの映画の主題を請け負うことはできない。言うまでもないが、それをやったらこの映画の主題は劇団になってしまうからだ。

 三浦がなぜこの映画で失敗したのかは既に述べた。だが本当の結論はそこにはない。真の結論は、誰が撮ったところで、この映画は失敗に終わることが決まっている、と言うことだ。題材の失敗こそが、この映画の失敗の根源である。三浦をこの映画に採用した慧眼の持ち主は、題材の良しあしを見極められなかったのだから、皮肉なものである。

labyrinth