或る終焉のレビュー・感想・評価
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最期の時…
淡々と進むストーリー。
音楽はナシ。
主人公は無口。ティム・ロスが一切エキセントリックさを排した名演。
題材は終末期ケア。
映画的娯楽は皆無ながら、これをよく深淵な作品にした事に感心。
終末期患者のケアをする看護士のデヴィッド。
寡黙だが、患者に対して常に手厚く、仕事ぶりは真面目。
しかし、その佇まいには孤独や悲しみが滲む。
ケアをしていた女性患者。亡くなった後、葬式に顔を出す。遺族から生前の話をして欲しいと言われるが、遠慮する。
その帰り、バーへ。隣席のカップルから話し掛けられ、患者亡くなったを妻のように話す。
デヴィッドには家族がいた。が、息子が亡くなった事で妻や娘と別れ…。
患者を偲んだのか、家族との在りし日の事を思い出したのか…。
家族にも気難しい老年男性患者。
交流を育む。ポルノ動画をせがんだり、デヴィッドのシャワーを気持ち良さそうに。
ある日突然、家族から解雇される。患者へのセクハラで訴えられる。
新たな担当は中年女性。
デヴィッドがセクハラで訴えられている事や家族の事も承知。
デヴィッドは自らの手で息子を安楽死させ…。
そんなデヴィッドを信用する。時にはデヴィッドの娘(開幕、デヴィッドがSNSで見ていた若い女性)も食事に招いて。
治療に苦しむ。
ある時デヴィッドに安楽死を頼む。
デヴィッドは…。
本当に劇的な事は何も起こらない。
いや、最後に起きた。あまりにも唐突に。
それはただの事故か。それとも…。
常に患者を思いやったデヴィッド。“それ”も患者の為に…。
法で許されている国もあるが、是非が問われる。
行ったデヴィッドへの罰でもあるのか…?
“或る終焉”という邦題は患者たちの事だと思っていた。
人生の終焉、男は何を見たのか…?
介護
ティム・ロス目当てで見た。
若い頃の作品ばっかり見てるけど、今でも😏みたいな顔芸(?)が健在でちょっと笑ってしまった。
ティム・ロスが延々と介護していくお話、ではない。
徐々にティム・ロスの過去がわかっていくのはなんかゾッとした。作り方がうまい。
どうやら重い病気だった息子を自分の手で殺した(安楽死)ようだ。
その自責の念からか、セクハラと訴えられるほど患者に寄り添う。
娘との再会シーンも心がちょっと痛かった。
介護する方も辛いだろうけど、介護される側もきついなぁ、、。頭がすっきりしているなら尚更。
ちょっとした説明で過去を説明することが多く、集中していないとただの介護してるのを見るだけのお話になっちゃいそう。まぁ介護の話だけで終わっているのかもだけど。
最後は画面に引き込まれた後の事故シーンだったからめちゃくちゃびっくりした。
こんな終わり方なんだ、、
あれで死んだのか、介護される側になったのかは分からない。
この監督は終わり方が特殊らしいから、他の映画も見てみたいと思った。
どこかで見たことある
予備知識なしで見たので、途中までティム・ロスだと気づかなかった……。
内容はラストシーン以外とくにどこにも行かず、尊厳死についてそろそろ考えるくだりが始まったな、というところで轢かれてしまうので、なんというか惜しいという印象です。
主人公は子供を失いながら、人生を投げ出さず、それでも人に手を差し伸べたり、信じようとしていた点は救われる思いはしました。
最初に亡くなったサラという患者に対する献身度は、見ていて愛妻なん...
最初に亡くなったサラという患者に対する献身度は、見ていて愛妻なんじゃないかと思っていた。そのくらい親身に接する男デヴィッド(ロス)。次は病院で脳卒中で倒れた男ジョンの相手をするのだが、建築家だったという話を聞いてから、自ら本屋で建築に関する本を買ってきてあげるなど、看護師と患者の間柄を越えた親密さが感じられるほどだった。しかし、それが災いして、ポルノ動画を見るジョンとかを野放しにするもんだから、家族からはセクハラだと訴えられてしまう。
在宅での仕事を見つけ、また看護に励むデヴィッド。オフにはジムに通ったり、必ずランニングを欠かさないほどストイックな雰囲気。久しぶりに娘や元妻と会えたのがうれしそうだったけど、ラストは思わぬエンディング。車にはねられて終わるのだ。あぁ
ラストがツラくて
淡々と進んでいくストーリーなのに
主人公の苦悩がヒシヒシと伝わる
献身的なゆえの悩み
結果的に人の死に手を貸してしまう
ラストは歩行者用の信号が赤にも関わらず走り続け運に任せ
自ら死を選んでしまう
現場で鳴り響くクラクションが悲しさと虚しさを引き立てています
ラストは「救い」「解放」という解釈はどうか?
効果音も音楽もなく、淡々とエンドロールまでいく。抑揚のないシーンの連続は、ラストの衝撃を何倍にもして観客にぶっつけてくるための布石だったのか。
そのラストは、幇助の「報い」なのか?と思った。
しかし、原題を見て考えが変わった。
英語が苦手の僕が、原題『chronic』とはどうゆう意味か?と調べてみると、「慢性的な」とか「持病」とか出てきた。それは誰の?と想像してみると、主人公デビット自身なのではないか!と思えた。
甲斐甲斐しく献身的な仕事をして患者に信頼されるデビッド。それは傍目には仕事熱心に見え、たまには過剰にも思え、セクハラの疑いさえ持たれる。そんな熱心なデビッドだからこそ、患者の過去(例えば建築家の業績)を知ることで患者の人生に寄り添おうとしているのか、と思っていた。しかし、実はデビッド自身が患者の内面に入っていきたいために率先してしていたことなのだ。
そうなると、デビットが介護していた患者たちがデビッドを必要としていたのではなくて、デビッド自身こそがデビッドを必要としている人を必要としていた、のではないか?と思えてならない。
つまり、「慢性的に」自分を頼る終末期の患者を求め続けていたのだと。息子の死が遠因で(どうも手助けしたらしいが)。ある意味、依存症ともいえるのではないか。
ならば、患者の姪が話をしたいと申し出るのを無下に断るのもわかるし、セクハラを疑われても会わせてくれと頼むのもわかる。最後の患者の願いをはじめは断るのも、またひとり自分から去っていくのが忍びないからと思えるのだ。
もし、人間の死が神の意志ならば、やはりラストは「報い」ではなく、「救い」「解放」なのかもしれない。
あまりに静か
主人公が仕事に嗜癖している感じがよく出ていました。どうしてかなぁと思っていたら、息子を看取ったことと関係があるようです。
子どもの死も一つのきっかけになって、家族がバラバラになったのかな。
ある終焉というタイトルは、ラストを強調しているけれど、原題はこの主人公の仕事への嗜癖の果ての結末と感じた。
死に方があんまり
予告みたいにへたな音楽が流れず淡々として上品でとてもよかった
なのに最後の死に方。
首吊りでも薬でも電車に飛び込みとか、自殺か事故かわからない死に方なんていくらでもあるのに、なぜトラックだったのか。早朝のランニング、fuck you!と16才の少年に言われたあと、前も後もなく走るティムロスをつぶすなんて。
生に深くかかわる贖罪
ラストを「天罰」と解釈するレビューがあり、
本当に物事の解釈は人それぞれなんだなぁ…と驚きました。
「死」の捉え方は人それぞれなんだなと。
私は自身が安楽死賛成派なこともあるのか、主人公の即死は、
「辛く苦しい人生からの最速の解放」という、むしろ神からの
ご褒美的なものに感じていました。
あれだけ多くの人の苦しい終焉に寄り添ってきた主人公にとって、
何の希望もない長引く終焉を自身が体験することは、
最も恐ろしい未来だったのではないかと思うのです。
常に死が身近にあった主人公にとっては、介護士など他者の
手を借りることなく死を迎えることができる終焉こそが、
理想であり、憧れであったのではないかと思います。
安楽死が「神の領域を犯した」ことになるのなら、
癌の化学療法も自然の摂理に反している以上、神の領域を
犯しているわけで、延命方向の介入はOKだけど、幕を閉じる
方向の介入はNG、と白黒つけてしまうのは、結局は身勝手な
人間の言い分であり、「生>>>死」という死生観から
生まれる考えなのではないかな、と思います。
他人の手を患らわせ、希望もなく、辛い副作用に悩まされながら
不自然に生きていくことが辛いと思う患者の気持ちはよく分かるし、
私も患者の立場なら可能なら安楽死を望みます。
そして、それを手伝ってくれる人には素直に感謝します。
老人の孤独死が増えている昨今、重く、人生の最後のリアルを
淡々と描き出しているこの映画は、色々考えるきっかけに
なるかもしれないし、ただ暗い気持ちにさせられるだけかも
しれません。
隣り合わせの死と折り合いをつけるのは難しい
観終わっても、少々心が動揺していた作品です。
終末期の患者ばかりを看護しているデヴィッド(ティム・ロス)。
彼は患者に寄り添いながら、黙々と看護を行っている。
黙々と、といったら語弊があるか。
そんな彼には、別れた妻マーサ(ロビン・バートレット)と娘ナディア(サラ・サザーランド)がいる。
長らく行き来のなかった三人であるが、ある事件(濡れ衣といってもいいのだが)を契機に再び出逢うことになった・・・
というハナシで、話が進むうちに、離婚した原因もわかるようになってくる。
94分という短い尺であるが、そのほとんどがデヴィッドが行う看護の様子が淡々と描かれるのみで、観ていてツライ。
特に、冒頭に描かれる末期エイズ女性を看護する様子は、患者を演じている女優さんがあまりにも痩せさらばえており、かなり衝撃的だった。
映画の面白さ(この言い方でいいのかどうか)のひとつは、デヴィッドの過去が徐々にわかってくるあたりにあるのだが、もっと関心を惹かれたのは、彼の日常におけるバランスの取り様。
常に、死と最も近いところにいるデヴィッドは、患者との関係性に嘘を持ち込みながら、バランスを保っている。
例えば、最初に描かれる末期エイズ患者との関係。
葬儀のあと立ち寄ったバーで、彼はたまたま同席した女性に対して、「妻が死んだ」と告げる。
また、ふたりめの脳梗塞を患った男性患者との際は、患者の弟だと偽って、患者が設計した家屋の内覧に出かけたりする。
ここいらあたりの描写が興味深い。
患者を知って、寄り添うために、患者の身内を装っているのではなく、「実と虚」を混在させることで「生と死」のはざまでのバランスを取っているようにみえるのだ。
生と死のはざま=看護生活、
虚(死に近づいていく)=患者の身内を装う行為、とみるならば、
実(生そのもの)=繰り返し描かれるランニングシーン、なのだろう。
こういう図式があるから、衝撃と謳われるラストがあるのかもしれない。
デヴィッドの過去には、重篤な小児癌だった幼い息子の死がある。
自ら手を下したとされているが、延命治療を自らの手で拒否したのかもしれない。
どちらでもいい。
バランスを取るため行っている「患者の身内を装う行為」は、妻と娘のもとに戻ったときには取れないのである。
そのために、彼はバランスを崩してしまい、三人目の患者の自殺ほう助という行為におよび、ひいては、衝撃のラストに繋がる。
実(生)の世界が、虚(死)へと一気に転換するラスト。
なるほど。
書いているうちに、少なからず心の動揺がおさまったような気がしました。
ラストシーンと日本の映画宣伝について。
とにかくラストシーンについて、いろいろ思うところがありました。
このレビューの要点なので、早速ネタバレしますけど、
ジョギングをしていた主人公が、いきなり車にハネられて終わるというラストシーンでした。
「ダサい。」
というのが第一印象でした。
“いきなり真横から車にぶつかられてショック”演出は、
『セッション』で見たし、『追憶の森』でも見たばかりです。
流行りなんでしょうか?
仮に流行りじゃなかったとして、
「最後の最後にびっくりさせてやろう。」という意図は、
やっぱりダサいと思います。
また、その後の無音のエンドロールも、『アメリカンスナイパー』に乗っかったような、「この映画を社会問題映画として真面目に考えろよな」っていう、上からな“圧”を感じて、逆にうるさいです。
最後に主人公を殺したのが、例えば劇中の登場人物の誰かであったり、主人公自身の意図という話であれば、「そういう物語」として理解はできるんですけど、
引っかかるのは、ラストシーンで主人公を殺して、罰したのは誰だったかってことです。
それは「偶然の交通事故=神の視座=映画の作り手の主張」ということになると思うんですけど、それがすごく独善的に思えて仕方がありません。
劇中、いろんな人の死や主人公の葛藤を静かに淡々と描いてきただけに、最後の作り手のどや顔のために、僕にとっては映画全体が「いけすかない話」になってしまいました。
また、何がダサいって、この『或る終焉』に対する、日本の宣伝の仕方です。
ポスターの最下段、
「世界を騒然とさせたその“結末”に、あなたの胸は貫かれる」
というキャッチ。
この映画のいちばんダサいところに乗っかってるじゃないですか。
他に観客に訴える要素って見つからなかったんですか?
仮にそれしか観客動員するために訴える要素がなかったとしましょう。
「映画の最後にびっくりする展開がありますからね!」
って映画観る前にお知らせしちゃったら、びっくり半減しませんか?
また予告編のいちばん最後、
「世界を騒然とさせたその“結末”に、あなたは胸を貫かれる」
というキャッチ。
さらにそのバックには交差点の映像ですよ。
「ああ、最後、交通事故で誰か死ぬんだな。」
って、わかっちゃいますよ、観る前に。
良かれと思って「騒然の結末」を煽ってるのかもしれないですけど、
その衝撃がいちばん薄まっちゃうタイプの宣伝なんじゃないですか?
まあ、でも仮に、作り手がそういう宣伝の仕方を望んだのかもしれないと思って、海外版の予告編(「Chronic trailer」で検索)も観てみました。
全然「騒然の結末」なんてアピールしてないことに騒然としましたよ。
ということは、日本の映画の宣伝屋さんが、「日本人の観客には、この騒然の結末くらいしかウリになる要素がないな。じゃあそれで釣っとくか。」って判断したということでしょう?
100万歩譲って、実際そうだったとしますよ。
じゃあでも、その結末がわかっちゃうような予告編にしたらダメじゃないですか?
もうちょっと真面目に映画宣伝を考えてほしいと願います。
もし、このレビューを読まれた映画宣伝関係者の方で、
「うっせーな!映画宣伝業界にもいろいろ事情があるんだよ!知らんくせに勝手なことばっか書くんじゃねー!」
と思われた方がいらっしゃいましたら、是非反論をお待ちしています。
ささやかではありますが、『無人島キネマ』という映画ブログとPodcastを運営しておりますので、「なんでこういうことになっちゃうのか」「日本の映画宣伝においてどんな問題や障害があるのか」など、お聞かせ頂けましたら、誠実に映画ファンの方々に伝えていきたいと思います。
誠実
依頼主の介護を誠心誠意それでいて人間らしく行う主人公。
仕事だからと割り切れないあまりにも重い仕打ちや依頼にも直面する。
なんともやりきれない全てを無にするラストは衝撃的だけどそれで良いのかという感じ。
孤独な献身と、潔い結末。
言葉数の少ない映画である。言葉以上に身体が多くを物語るこの作品には、終末期患者に寄り添う男の孤独な献身が描かれている。
病で不自由になった生活と精神を補助するために、ティム・ロス演じる看護師はまさしく献身的なケアを患者たちに施していく。家族よりも密接な関係を築く必要があるし、プライベートな領域にまで入り込まなければならない。その有様の難しさと過酷さをティム・ロスとミシェル・フランコ監督は、ただただ看護の風景をまっすぐ見つめることで淡々と描き出していく。そして同時に、ロス演じる男の中に蓄積されていく孤独と葛藤を浮かび上がらせており、言葉に頼らない演出は英断だったと思う
なぜ、彼はこんなにも過酷な仕事をするのか?ふとこちらがそう思った先に物語は展開し、彼の過去が寡黙に姿を見せ始める。多くは語られない。しかし不十分ということはない。大きく空いた余白を埋めるようにティム・ロスの演技が観る側の感受性を刺激する。
おそらく男にとって、終末期患者の在宅ケアという過酷な労働は、ある種の贖罪であり、懺悔のようなものだったのではないかと思う。男はまるで、罪を償うように身を捧げ、身を削り、命に寄り添っているように見える。そして家族とのふれあいのシーンの危うさから、彼が背負う十字架の大きさを垣間見る。かつて奪った(「奪われた」ではない)小さな命という大きすぎる悲劇と罪に抗えずに散った家族のあまりにも心許ない愛情の交流。彼の過去の葛藤や現在の孤独の、その源流が見えたと思うや否や、物語は更に男を追い込み、彼に同じ罪を重ねて背負わせる。重い内容だが、必ず誰の身にも訪れる死への向き合い方がとても真摯で、目が離せない。
ラストシーンでは、本当に息が止まった。映画を観ながら、男の現在と過去はよく見えるが未来だけはなかなか見えないと感じていたのだが、最後の最後、彼の未来を微かに感じ始めた頃に、そんな彼の未来をばっさりと斬り捨てるような幕切れを見せる。カタルシスさえも拒絶するエンディングは潔くていっそ胸がすく。あのまま、彼の未来が終わってしまっても苦しい結末だが、もしも立場が逆転して、彼に与えられた未来が、死を待つ「終末期」だったとしたら?なんて考えたらますます息が苦しくなった。
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