スポットライト 世紀のスクープのレビュー・感想・評価
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なかなか…
同時多発テロとほぼ同時期に追っていた事件なんて驚きです!
宗教に関する事件は扱いがとても難しいということが、告発者側からよく描かれていたと思います。
日本では宗教問題は希薄ですし、私自身無宗教なのでカトリック信者の方が観るとどう感じるのかを推し量るのはとても難しいです。
これはあくまでも告発者のドラマで、被害者や加害者の心象風景や事件当時の映像といったものはありません。
そちら側のドラマを描くとそもそも映画になっていたかも怪しい重大な事件故かもしれませんね。
だからインタビューでしか当時のことが語られない。。
緊迫感に今一つ欠け、焦燥や消耗といったストレスも感じ無い、記事になった時の達成感も無いのは、報道する人間しか描かれていないからなのでしょう。
でもアカデミーの作品賞と脚本賞を受賞している。。
ドキュメンタリーでは無いにせよ、いわゆる告発モノの映画が将来また出てきた時にもっと深く多面的に観れるようになるといいなと思います。
ところで、リーブ・シュレイバーの声渋くてカッコいいぜ
テンポに乗り遅れないように
冒頭からとにかくテンポが良く海外ドラマのようにどんどん進んで行きます。それになんとか置いて行かれないようにしないと話が見えなくなりそうなほど良いテンポ。ところどころ裁判の話やらなんやら"?"という風になるところもありますが、そこはなんとか脳内補完で…あとでプログラムを買って復習しようという気になります。
登場人物も多く名前も誰が誰やらわからないですが大きな問題ではありません。とにかく記者たちと一緒に問題に立ち進んでいきましょう。
テンポが良いのは細かなシーンも丁寧に描いているから。被害者たちに記者全員が当たっていくシーン、年鑑から加害神父たちを割り出していくシーンなど、大雑把に処理しがちですが様々なロケーションを使って数秒のシーンも盛り込んでいます。
「俺も弟もほっとけ!」と記者を追い返すシーンなんて、ほんとに数秒でしたが、アレがあることで、記者の苦労が伺えます。
駅で年鑑を見てるシーンとかも。
自分もレイプされていたんだという年老いた神父は、まさしく精神年齢12歳ぐらいといったような幼稚な印象を受けました。
ハッキリと言ってはいないけど教会の深い深い闇を感じさせるシーン。
そして結末は、真実を暴き勝利したはずなのに、とっても胸クソ悪いです。映画にとってそれは良い意味で。
宗教問題は日本人には馴染みが無いので、なかなか理解が難しい部分もありますが、それでも十分楽しめる。虐待については言葉での描写しかありませんが、十分胸クソ悪い気分にさせてくれます。
人工物である教会と、信仰は別物という言葉が印象的でした。
『宗教』という曖昧模糊
日本で生まれると本当に馴染みが薄いものの一つが『宗教』である。繰り出す行事は日本人ならではのアレンジ力で表面だけ撫でているが、実際それが生活に深く根付くということはない。だからこそこの作品の本当の意義は、自分にとって強く合点がいくという気持ちに至らなかったというのが正直なところ。肉親や家族よりも信じることが出来るという対象物に出会うのは果たして幸運なのだろうか、どうなのだろうか…
キリストカトリック教会内での子供への暴行事件を追う少数精鋭の新聞記者チームの軌跡を辿るプロットになっている作品である。
新しい編集局長が赴任してきて早々、キリスト教神父による幼児虐待の事件について記事にするよう指示を出す。そこから、その加害者が一人ではなく、かなりの数の人間が発覚し、そしてそれを公表せず、隠蔽工作まで行うカトリック教会自体への糾弾へと大ごとになる、社会の暗部に『スポットライト』を照らす働きをスリリングに描写している。
只、この作品のキモというか、裁判所での情報開示の件が、非常に早すぎてついて行けない部分がある。字幕を追いながらではかなり厳しい。どんでん返しというか、法律の裏を突くような資料の開放方法なのだが、今ひとつ理解出来なかったので、非常に残念。というか、自分の頭の悪さを呪うばかり・・・ 馬鹿は映画も楽しめないわな。
そして、どんどんと証拠資料や取材ソースも溜まり、満を持して紙面に発表することになるのだが、これ程までに執念を燃やすのは理由があった。それは正にこの犯罪の告発が過去にあったとき、他の取材が取り込んでいてスルーしてしまった事への悔恨なのである。もっと早く記事にしていれば数多くの被害者が生まれなかっただろうという想いが、リーダーにはあったのだ。そういう意味では自分も加害者の一人だという信念が巨大な組織を動かした力なのである。
組織、それも“宗教”という光が強い団体はその分だけ闇が深い。組織を権威を維持するための働きは相当重く強い。そこを切り込む力はそれを凌駕するもの、それを“信念”というものなのだろう。
ちなみに元になった『ゲーガン事件』の首謀者ゲーガン神父は、収容先の刑務所で他の受刑者に殺されたとのこと。ここにカタルシスを看るのか、それとも・・・
教会の闇と心の傷を照らす
アカデミー賞は、この作品が描いた真のジャーナリズムへ贈られたのだと思いました。何度か照らした光がようやく権力の闇を崩して行く…でも暗闇を突き抜けられた訳ではなく、まだまだ氷山の一角なのかと。
命懸けであったり、世間を根底から覆す覚悟があったりと、そういったジャーナリズムを描いた作品は数多くあると思いますが、この作品は、組織的隠蔽を暴くだけでなく、被害者へ救いの光を差し伸べることのできる人道的なジャーナリズムを描いています。
アメリカではとにかく小児性愛者は忌み嫌われます。それが、地域の住民から信頼され、懺悔・告白を聴き毎週説法する役目の神父だったら…。
一部の神父自身も被害者である可能性が示唆されているようでしたので、長年に渡る教会の罪は深いでしょう。
映画自体は、登場人物や関係者が多く、流れを追うので精一杯でした。海外ドラマでお馴染みの人達は、どうもそちらのイメージが拭えなかったです。話にあまり盛り上がりはないので、恐らく多くの方は、最後のリストに最も驚愕するのではないかと思います。そこから生じうる負の連鎖を考えると更に恐ろしくなります。
"If it takes a village to raise a child, it takes a village to abuse one."
事実に誠実であるというハードボイルド
信仰の基盤となる教会の「悪」が暴かれる、というのは、おそらく信仰を持たない人には想像できない大きな衝撃だと思う。
映画の中に出てくる「数字」が衝撃だ。神父の6%が性的虐待をしている可能性ある → ボストンの神父は1500人だから、その6%となると90人? → 実際調べてみたら本当に約90人だった! の流れはびっくり。
そして、この「6%」は、全世界のカトリック神父全体に当てはまる可能性があり、実際にこのスクープが発表されてから、ものすごい数の性的虐待の訴えが発覚する。
カトリック教会は組織ぐるみで隠蔽していたのは明らかであり、まさしく世紀のスクープだ。
これは、神父が「禁欲」を強いられることが根本的な原因だとすると、教会の基盤そのものを揺るがしかねない(そもそも組織ぐるみで隠蔽している時点で、聖職者としての権利は失われているはずだが)。
このスクープは、「権力」に対する批判、隠れた犯罪や隠れた被害者を明るみにする、という意味で、ジャーナリズムの本質を体現したものだと思う。
映画は、この事実を事実であるという重みを損なわないように、うまく脚本にしたと思う。
チームのメンバーは皆プロで馬鹿なヘマはしないし、分かりやすい悪役や妨害工作のトラブルがあるわけでもない。
しかし、根気よく丹念に目標に迫るだけのことが、どんなに大変かということがよく分かる。
彼らの記者ということに対するプロ意識も見事だ。
日本の新聞ははじめに先入観を持って、ストーリーを作り、その筋書きに合う材料を集めてきて記事にする印象が強いし、そういう記事がしばしば問題になる。
しかしグローブ社のメンバーは「裏をとる」こと、一次情報を集めることに多大な労力を割いていて、それが記事にするということだし、当然だと思っている。「思いは熱いが、頭は冷静」なので、危なっかしさがない。
この事件が示唆することは無数にある。
最も大きいのは、このような大きなことが、あまりに長く見過ごされていたということ。グローブ社のメンバーが認めているように、実はこの事件は何度も小出しの記事になっていた。その意味で真のスクープではない。
そのような、実はその業界の中では公然の事実として知られているけれども、構造的な問題で手がつけられていないような話はかなりあるのだろう。
映画の登場人物では、ユダヤ人の新局長にしびれた。口下手で控えめな性格だが、深く静かにふるまい、考えることができる。
口八丁で自己アピールに長けていて、明るくて社交的なことが過剰に評価されがちな現代で、こういう人こそが必要なのだと思わせる。
How do you say "NO" to God, right?カトリック教会の闇をあばいた実話に基づく物語
正直アカデミー賞って苦手です。なんだか御高くとまってるイメージで、アカデミー賞受賞って言われると逆に敬遠してしまうタイプなんです。だってアカデミー会員って皆さん映画関係者で年間物凄い数の映画を観ている人達なんでしょ?一般人と感覚が同じわけないって!そんな感覚のズレた人達が選んでいる賞なんて、通好みであっても一般人の自分が観たって面白いわけないって。今までそう思ってましたが・・・この作品は面白かったです!
カトリック教会には全く馴染みがないのですが、権威を盾に子供に性的虐待を行ってた事件、そしてそれを隠蔽していた教会の暗部を暴いて行くストーリー。派手な見所が有るわけではないのですが、地道に調べてひとつひとつを積み重ね追究していく記者達を魅せる群衆劇です。ちょっと登場人物が多く誰だったっけなってなる事もありました。それでも骨太の社会派ドラマは一見の価値ありです。
個人的には日本人であまり宗教を気にしないのですが、宗教って怖いなって感じたのは司祭の家へインタビューしに行った時に「肉欲に溺れた訳ではないから別にイタズラしても良いだろ?」っと加害者のはずの司祭が平然と言ってのけてた事です。肉欲に覚えるのは神に背くこと。子供に性的虐待をする事より、神に背く方が悪いと思ってる時点で宗教家との隔たりを感じました。でも、ああいった感覚って宗教家さん達には当たり前なのかもしれないですね。怖っ!
マイケル・キートンが昨年の「バードマン」に続きいい味だしてます。バードマンとは全く違う役柄でも自然に演じていて上手さを感じます。マーク・ラファロが熱い記者を熱演!マイケル・キートンに食って掛かる姿はグッときました。リーヴ・シュレイバーは相変わらず存在感ありますね。紅一点レイチェル・マクアダムスのナチュラル美人も好感が持てました。
最終的にはバチカンまで巻き込んだ大事件に発展した本作。その始まりを作った新聞記者達の真実の物語。もしアカデミー賞だからって敬遠している方がいらっしゃいましたら(普通はいないのかな?)この作品は面白いので安心して観に行ってくださいませ!
土曜日の朝っぱらから深く深く考えさせられた
カトリック教会の話なぞ、無宗派の日本人に受け入れられるのかという
不安は無用、立派なエンターテインメントに仕上げられており、
置いてきぼり感は全くありません。
とはいえ、上手い役者と秀逸な脚本のおかげか胸に迫る重厚感、緊迫感あり、
非常にバランス良く作られています。
そもそも、人間がよりよく生きるために生まれたのが宗教なのに、
膨れ上がってしまった組織は権力、金、人間の欲望でいかようにも
利用できる。そしてこれほどの大国で、その事実がまかり通っていると
いうことがまずショック。
自分が絶対だと信じていた人間に辱められた被害者は勿論、
教会を拠り所としていた信者たちは、生きていく指針を失ったも同然。
気持ちのを支えていた支柱を木っ端微塵に破壊された彼らの心は
一体これから何を信じればよいのだろう?
罪人達はロクに罰を受けることもなく、新天地にてまた涼しい顔をして
同じ悪行を繰り返す。
本来ならば悩める人間を導くために存在する人間が、道徳心のかけらもない
行為を繰り返して多くの人間の人生をぶち壊し、その事実は無きものにされる…。
カトリック教会の犯した罪の重さは計り知れないし、今でもどこかで続いているかもしれない。
世界各地で混沌となっているこの世の中、人間は宗教や民族で
カテゴリ分けされてレッテルを貼られてバッシングされて攻撃される。
この連鎖の頂点にあるともいえるカトリック教会の白人教職者達の
悪行、このタイミングにてこの映画が公開されたことは、
アメリカ、カトリック信者以外の世界中の人間にいろんな意味での
大きな影響を及ぼすと思われます。
また全く異なる視点からの感想ですが、スポットライトチームの仕事。
自分がこれまで仕事に必死になったことがないため、大切な物を
犠牲にして仕事に身を投じる彼らにこころ動かされてしまったらしく、
これまでの「お金がもらえればいい」という信念が曲がりそうです。
ともすれば自身や家族の身に危険が及ぶような際どいネタに、
心身すり減らし尽力する彼らを突き動かすものって一体何なんだろう?
決して楽ではない仕事ですが、ここまで追い求められるものが
あるということが羨ましく感じました。
朝イチの回で観ましたが、おかげで久しぶりに人生の深い部分について
1日考えさせられました。
本当に秀逸なエンターテインメント。
予告通りそのままの内容
う~ん。
内容は予告そのまんまで、特別な驚きも無く終わってしまった感じかな。
期待してただけに残念な作品でした。
あんまりおもしろくなかった。
low&order svuのよう
結論から言えば、Blu-rayを待ってもよかったかなという感想。ケーブルテレビでオンエアしてる「low&order svu」のような作り、内容。正直な話、low~のほうがあの手の話をうまく見せてくれるし、中だるみせずに見られるなと思った。
スキャンダラスなネタを扱っているわりには、前編通してなんか「のんびり」して見える。いや、あくまでノンフィクションなんだからそこは仕方ないのかもしれない。でも、さんざん伏線として「教会にバレたらただじゃすまないぞ」と言い含めてきたのなら、せめて何か起きてくれよ(笑)。なにも起きないまま、「他の新聞社にすっぱぬかれないように慎重にやれよ」ってだけじゃ、観てる方としては、「特大スクープを物にした新聞社の物語」として見ていいのか、「首や身の危険を省みないジャーナリストの生きざま」として見た方がいいのか、はたまた両方なのか(それだと大分物語の軸が定まらない気がするが)分からず仕舞いだった。
ほかにもいろいろ突っ込みたい部分はあるが、そこはノンフィクションとして、目を背けよう。
最後に、記事を見た被害者から多数の電話がかかってきたという事実だけ、ほんとうにそれだけが救いになった。
地味ながらいい作品だった。
カトリック教会が隠蔽している、多数の神父による児童への性的虐待という醜聞を白日ものとに晒すために、ひたすら取材を重ねていきゴールにたどり着くはなし。ストーリーとしては大きな盛り上がりもなく地味ではあるものの、逆に無駄な演出もなく、記者たちの情熱が現れていてよくできた映画だった。
カトリック教会の組織的な側面や、地域社会とカトリック教会とのかかわりなどがハードルになっていたけれど、自分のようなカトリック教会とは何の縁もない立場でなく、実際のカトリックの信者などがこのスクープ記事によって受けた衝撃はどれほどのものだったか。
最後に同様の事件があったことが判明した地域の一覧が出てくるけれど、その量の多さが衝撃。ただ、その後のボストン・グローブ紙ではこの件について600本ほどの記事が掲載されたらしいものの、そのあたりは物語には描かれてなく、初報に対する思いがけない社会の反響があった、ところで終わってしまっていたのはちょと物足りなさを感じた。
文句なしの作品賞
もうこれは賞を取らせないという選択肢はない、という出来栄え。
というよりも、元ネタの社会的意義がとても高い。
神父による子供の性的虐待を 教会中枢が隠蔽し続けてきたという構造問題をボストン・グローブ紙が丹念な調査に基づいて長期連載した、その過程を描いている。
映画化にあたって派手な演出は控えられ、地道な調査と関係者の小さな勇気が重ねられていった様子が描かれているのが良い。
さて、なぜ、これまで、長きにわたる教会の構造的問題が表沙汰にならずにきたのか?
教会の規律の前時代性、被害者がメディアに出たがらない、関係者による告発の不調、情報をもらったジャーナリストの迂闊、どれも悪意によるものではない。
その根底には欧米人にとってカトリック教会というものの存在感がある。
日本人の感覚にたとえていうなら、いったい何に相当するのだろうか?あの信頼感はいったいなんなのか? 弱い者の立場にたつ機関であるということだろうか?
その感覚はわからない、別世界のものだなぁと感じずにはいられない。
ただ、わからないながらも、教会の暗部をあばくことに対するためらいは十二分に伝わってくる。
だからこそ、報道機関は書くべきなんだ、という”よそ者ユダヤ人”局長の台詞が主題そのものであった。
Spotlight (2015) Quotes
Marty Baron: Sometimes it's easy to forget that we spend most of our time stumbling around the dark. Suddenly, a light gets turned on and there's a fair share of blame to go around. I can't speak to what happened before I arrived, but all of you have done some very good reporting here. Reporting that I believe is going to have an immediate and considerable impact on our readers. For me, this kind of story is why we do this.
実直な映画
地味な映画かもしれない。奇を衒わない演出で、ものすごく「普通」の映画と言ってもいい。だけど「普通」だからこそ響いてくることもある。「実直」だからこそ心動かされることもある。
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加害者が一番悪いし、それを意図的に隠蔽しようとした教会も勿論ものすごく悪い。
ただ、それ以外の人たちがみな清廉潔白かというとそうでもなく。
地域・コミュニティに波風たてたくない…そんな消極的理由で事件をスルーする地元民。アッパークラスになればなるほど失うものも大きいから慎重になる。告発する奴は空気よめないバカだ的な雰囲気。そんな長年の積み重ねが、事件の温床となる。私もその場に居たら、長いものに巻かれるだろう、そう思うと怖い。
記者たちが暴くのは加害者や権力だけではない。自ら属する共同体の弱点も暴かざるをえない。
そして事件が暴かれる何年も前から、新聞社には断片的な証拠は届いていた。大きな記事にすることもなくベタ記事だった。私は、意図があって隠蔽していたのだろう、教会か誰かに頼まれたのだろう、その悪徳記者は誰だ?と思いながら観ていたのだが…。
終盤明かされる結論はそうでは無かった。意図的な隠蔽というよりも、記者の「無関心」がきっとそうさせたのだ。自覚なく空気を読んでしまったのだ。普通の人の悪気のない行動。そのことへの深い自省、苦さが、ものすごく胸に響く映画だった。
「遠い海の向こうの怖い話」ではなく、私ら自身も知らずして陥っているかもしれない苦さ。その苦さを乗り越えるからこそ一条の光が射す。「権力に屈せず事件を暴いたジャーナリストはエラい」というだけではない映画だった。文章に纏めるとものすごく説教くさいが、映画は淡々と淡々とそのラストに至るので、素直に心動かされる。とても実直な映画だったと思う。
被害者の救済を一刻も早く!
第88回今年のアカデミー 作品賞、脚本賞の受賞作品
2003年にピューリッツアー賞公益報道部門で受賞した時のボストン グローブ紙のスポットライトチームについて描いた実話。スポットライトチーム(特別調査報道班)は、教会のペデファイル(小児性愛)牧師を追及することで、カトリック教会が組織的に犯罪者たちを保護し事実を隠蔽してきた事実を暴露した。
ストーリーは
カトリックが住民の大半という保守的なボストンで、ボストングローブ紙は地元紙として住民から強い支持を得て来た。社にはスポットライトチームという調査報道班があって、ひとつのテーマを、数か月かけて内容を深めて報道する役割を果たしていた。ベン ブラッドリー、ウオルターロビンソンを中心に6人の先鋭たちだ。定年退職していった編集長の代わりに、マイアミから新しい編集長マ-テイン バロンがやってきた。革新的な土地からやってきた新編集長の目からは、ボストンで起きた 「ケーガン神父によるペデファイル事件」について、ボストンのどの新聞社も、通り一遍の報道しかしていないことが気にかかっていた。もっと事件を掘り下げて事実上起こったことを住民は、知るべきではないのか。
チームは動き出した。ケーガン神父が子供達をレイプしていた、ということを当時の教会の上司達は知っていた。にも拘らず神父が犯罪行為を繰り返すことが許されたのは何故なのか。被害者たちの弁護士は、証拠をもって裁判に持ち込んでも教会内では警察が動かない。証拠と証言が充分にそろわずにいるため被害を立証できない。加害者がはっきりしているにもか関わらず、納得のいく判決が出ず、損害賠償に持ち込めない。そのうちに加害者の牧師は、他の教会地区に移動していって、罪を問われないまま引退していく。そんなことが許されるのか。様々な壁にぶち当たりながら、チームの記者たちは被害者たちを、ひとりひとり探し出し、彼らの硬い口を開かせて、その声を拾い集める。
徐々にわかってきたことは、同じ教会の上層部にいる司教が、性的虐待をされた少年少女被害者たちが訴え出ても、加害者の牧師を他の任地に移動させ、被害をもみ消していることがわかった。他の任地に移動したぺデファイル牧師は、そこでまた犯罪を繰り返す。被害は広がる一方だ。ボストンだけでぺデファイル牧師の数は、90人。驚くべきカトリック教会組織内の腐敗と犯罪が見えて来た。調査が佳境に入るころニューヨークで9.11事件が起こる。各新聞社が9.11で浮き立っている中で、スポットライトチームは、しぶとくぺデファイル牧師というカトリック組織内最大のスキャンダルを追っていた。
2002年、遂にチームは調査結果を紙上で発表する。衝撃は世界中に広がった。紙上で被害者は恐れずに被害を受けた時の話を聞かせてほしい、とスポットライトチームの電話番号を明記した。グローブ紙が配布されると同時に、出社したばかりのスポットライトチームの各電話が鳴り響いた。続々と被害者たちが自分に起こったことを語り始めたのだった。それは今まで誰にも言えずに隠してきた過去の心の傷を一挙にさらしだして教会に正義を問うことに被害者たちが目覚めた瞬間だったのだ。
というストーリー
ラブシーンもベッドシーンもなければ、家族が笑ったり食べたり喜んだりするシーンもない。地味で記者たちがひとつのテーマを追って仕事するシーンだけでできている映画。そんな映画が今年のアカデミー賞最大の名誉である作品賞を獲った。
最後のスポットライトチームの部屋にある電話すべてが次々と鳴り響くシーンが感動的だ。勇気をもって名乗りを上げようと被害者たちがかけて来た電話のベルが、力強い合唱のように聞こえるところで、映画が終わる。
編集長は犯罪が、いかに教会でシステマチックに行われてきたかを、告発することでしか再犯は防げない。被害をセンセーションに暴露して世に衝撃を与えるのではなく、いかにカトリック組織が、このような犯罪を黙々と許し、世間から隠蔽することによって、教会の権威を守って来たのか、教会の組織的犯罪を告発することを、記者たちに要求していた。かたくなな編集長の姿勢に対して、若い記者たちの、次々をわかってきた被害を、一刻でも早く暴露して報道したい熱意とが衝突する。正義感ゆえに、編集会議で編集長と正面衝突した記者が、行き場がなくなって夜中に仲間の家を訪ねる。自分が子供の時、親に連れられて教会に通った、そんな互いの共通点を語り合うことで荒ぶる心を鎮めようとする。スタッフ同士が言葉少なく、心を通わせるシーンが印象的だ。記者たちにとって、教会に通う「良い子」だった頃のことは、良い時代の良き思い出だ。教会に裏切られるということは、お父さんに裏切られたようなもの、心が傷つく。
被害者たちの代弁をする弁護士のミッチェル ギャラベデイアン(スタンリー トウッチ)は、アルメニアからきた移民。対する記者のマイク レゼンデス(マーク ラファエロ)はポルトガル移民の子だ。二人ともヨーロッパからきた貧しい移民だった背景が、彼らの正義感を裏打ちしている。
また、役者のマスター キートンがとても良い。「バードマン」でブロードウェイをパンツひとつで歩いたうらぶれた姿からは想像できない、切れ者、凄腕のジャーナリスト役にはまっている。
確かにこのボストンブローブによる報道が世界に与えた影響は大きかった。これが’切っ掛けになってカトリック教会組織のスキャンダルを追及する動きは、大きな波となり、被害者のカミングアウト、裁判による刑の執行、損害賠償が盛んに行われるようになった。しかし、まだまだ教会組織の膿は出ていないし、バチカンは秘密に覆われていて、裁判はスローモーションで被害は救済されていない。
オーストラリアでは、2012年に創設された皇室小児性的虐待対策委員会(ROYAL COMMISSION INTO INSTITUTIONAL RESPONSES TO CHILD SEXUAL ABUSE)がこの問題を取り扱っている。今までぺデファイルで実刑を受け刑に服している牧師がたくさん居る。
1997年 26人の被害者に対して50の罪が立証され服役したビンセント ライアン牧師。
2004年 4人の被害者、24の罪で服役、余罪を追及されていた2006年に獄死したジェームス フレッチャー牧師。
2009年 39人の被害者、135の罪で服役したジョン デンハム牧師。
2009年 4つの罪で服役しているジョン ハウストン牧師。
裁判中の、5人の被害者、22罪状のデビッド オハーン牧師。
裁判中死亡した、8歳と10歳の少女をレイプしたデニス マクアリデン牧師。
審議中の 2人の被害者、22罪状のピーター ブロック牧師。
また、これらの牧師達を保護隠蔽した罪でパトリック コター神父、トーマス ブレナン神父、フィリップ ウィルソン大司教が罪に問われている。
これらのカトリック組織犯罪の中でも、オーストラリアで一番出世しているジョージ ペル枢機卿バチカン経済省主席が、最も犯罪的と言える。彼はバチカンで次のポープの候補にあげられるようなカトリック教会の最高地位に登る場にいるが、彼は多くの牧師によるレイプを見逃して、隠蔽してきた。彼はメルボルンで1996年-2001年まで準大司教を務め、2001年から2014年までは、シドニーの大司教を務め、現在バチカンの大役を任されている。彼がメルボルンに居た頃に、部下のジェラルド リステル牧師は、1993年から2013年までの間に4歳の子供を含む54人の子供に性的被害を与え8年の実刑を受けて服役している。この恐るべき犯罪者と、当時同じ家に住んで居た、ジョージ ペル枢機卿は、「何も知らなかった」 と証言し、14歳の少年を毎晩自分のベッドで寝かせてレイプしていた犯罪者を、自分は、「何も見なかった」と言っている。ジョージ ペル枢機卿自身も、1961年に12歳の少年をレイプした罪で、2002年6月に訴えられているが、なぜか審議中に訴えが取り下げられたため継続審議されていない。
最近だが2006年2月、皇室審議委員会が審議中の証人としてジョージ ペル枢機卿をシドニーに召還したが、74歳の彼は、パリ旅行から帰ったばかりなのに、「健康上」の理由によって、バチカンからシドニーまで来られないと言った。そこで証言は、バチカンからビデオを通して行われることになったが、被害者たち15人の一行は彼が証言するところを実際に見たいということで、自費でバチカンに飛んだ。この審議の様子は、オーストラリアの公共放送ABCテレビで、数日間すべて放映された。ABCは良くやったと思う。おかげでオーストラリアの人々は、当時彼が部下だった加害者牧師に、彼が何をしたのか、どう証言するのかを、ビデオで見て証人になることができた。誰もが彼の、「知らなかった」、「見なかった」、「全然興味もなかった。」という彼の証言に、改めて怒りを持ったと思う。15人のバチカンに飛んだ被害者たちは、予想通り落胆し、バチカン最高責任者に面会を求めたが、受け入れられず、傷心の帰国をせざるを得なかった。
裁判はいっこうに進まない。犯罪が行われたことは疑いがないにもかかわらず、罪を問うことに時間がかかりすぎる。教会は人を救済するところではないのか。
この世で最も罪が深いのは、無垢な心を裏切ることだ。
神の教えを乞うために教会に来た子供達を、その師たるべき牧師が自分の性的満足のために虐待することは、人間として最も深い罪を犯していることになる。牧師にレイプをされ、信頼を裏切られ、精神的にも肉体的にも傷を負った被害者たちは。成長過程で、自己に自信を失い、人を信じられなくなり、他人との協調性を失う。うつ病や自殺に走る人や、薬物依存症などにもなりやすい。大人になっても普通の結婚ができなくなったり、理解者が得られず孤立していて、彼らの傷が癒えることはない。
ぺデファイルは、「嗜好」であって、病気ではないから治癒することはない。被害者の声によって一時的に反省しても、罰せられ受刑しても、彼らの「嗜好」を変えることはできない。ペデファイルは、「去勢手術」をするしかない。ぺデファイルに限らずレイプによってしか「快感」が得られない犯罪者を一生監獄に閉じ込めておくことはできない。彼らの中にも頭脳明晰で立派な業績を残せるような人もいるかもしれない。しかし彼らを放置して子供達を危険な状態に置くことはもっと許されない。こうした「嗜好」の人には、専門家が辛抱強く説得して、去勢施術を受けさせるべきだ。それが本人にとっても有益な結果を生む。
また、カトリック教会とぺデファイルとは、歴史的に長い事問題となってきた。カトリック教会の牧師も結婚するべきだし、カトリックの女性牧師がどんどん出てくるべきだ。何故って、「今は2016年だから。」(カナダのトルード大統領の弁を借りて。)
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