「「愛国」というフィクション」陸軍 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
「愛国」というフィクション
太平洋戦争末期に製作された国策映画。徳川光圀の『大日本史』を家宝のごとく奉る模範的愛国一家の辿る運命が、祖父、父、息子の三世代を跨いで描き出されている。
死に際の祖父から愛国精神を受け継いだ父は、日露戦争に参加したものの生来の病弱によって無念にも途中帰還を果たす。そうした悔恨から息子には常日頃から軍人として生きること、そして天皇陛下のために命を散らすことの意義や誇りを語って聞かせる。大日本帝国の掲げる「愛国」なるものの欺瞞や不条理が、ここでは親子三代という時間的な厚みによって巧みに韜晦されているわけだ。
しかしながら本作の監督は木下恵介。一見して平凡な物語の中にも無数の仕掛けや裏切りを凝らす物語映画のトリックスターが、ひたすら愚直で味気のない国策映画を撮るはずもない。
本作の山場は、というか見せ場は、ラストの数分に集約されているといっていいだろう。それまで祖父→父→息子の感傷的ホモソーシャルの中で「愛国」なるフィクションが醸成されていたところに、突として母が現れる。
母ははじめこそ戦争や父たちの語り継ぐ「愛国」の物語に同調しており、二人の息子がいずれ兵士として戦地に送り込まれることにも疑問を持っていなかった。しかし長男坊出征の朝、彼女はふと我に返ったように家を飛び出す。
母は軍歌の音を頼りに路地裏を駆ける。ようやく大通りに出ると、出征兵の隊列とそれを見送る無数の群衆。「愛国」というフィクションに憑り付かれた観衆が隊列に向かって狂ったように喝采を送り続ける。その波の中を、母ただ一人が逆行している。彼女は軍服によって匿名化させられてしまった隊列の中から必死に我が子を探す。そしてようやく息子を見つけ出し、彼の手を握る。しかし隊列は進み続ける。母はそれを追ってどこまでも観衆の波に、「愛国」に呑まれた世情に逆らい続ける。
それまで祖父や父が紡ぎ上げてきた「愛国」神話は、母の闖入によって完膚なきまでに破壊される。国とか天皇とかいった非人格的なものにばかり入れ込んでいるうちに、我々はもっと近いところにある大切なものを失いかけているのではないか。去り行く息子を見つめる母の佇まいにはそうした悔恨の念が色濃く浮かび上がっている。
あるいは誰もが本当は「大切なもの」の正体に気が付いていたのかもしれない。
出征の前日、二人の息子がそれぞれ父と母の肩を叩く。4人は他愛もない会話を交わしながらしばしの団欒を楽しむ。このまま時間が止まってしまえばいいのに、という切実な、しかし決して言葉にしてはいけない想いを代弁するかのように、カメラは固定ショットのまま4人の団欒を映し出し続ける。しかし最後には壁掛け時計の鐘が鳴り、4人は元の時間の流れに引き戻される。
愛国を大義名分に戦争という不条理に向かって無意味な行進を強いられていた人々の無言の苦しみを、国策映画という局限的フォーマットの中で見事に描き切った反戦映画の傑作だ。
本作によって完全に軍部から睨まれてしまった木下恵介は、それからしばらく映画の製作をさせてもらえなかったという。その反動か、復帰後の第1作目である『大曾根家の朝』では本作以上に彼の反戦意識が強く反映されていた。