「魂の伴侶を得る幸せと、その広がり」人生は小説よりも奇なり つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
魂の伴侶を得る幸せと、その広がり
マンハッタンで暮らす、長年のパートナーベンとジョージが結婚式を挙げるところから映画は始まる。
熟年のゲイカップルが中心だが、「人生を共にするすべてのカップル」に置き換えても成立する、切なくも愛おしい物語だ。
少なくとも私には他人事に思えなかった。
ストーリーを引っ張っていく「きっかけ」として、ジョージがゲイを理由に解雇される以外は本当に普遍的な「生活を共にする」ことの素晴らしさと苦悩にあふれている。
ベンは甥っ子の家に居候し、ジョージは階下のゲイカップルの家に居候。
ベンが居ることで甥の妻・ケイトは在宅での小説執筆が進まなくなるし、ジョージはパーティ三昧の住人の部屋で居場所を見つけられない。
この作品で面白いのは、ベンとジョージの元の生活も、甥・エリオットの家庭も、階下のテッドとロベルトも、それぞれが快適なパートナーシップ生活を営んでいるのに、その過ごし方は全然違う、ということだ。
二人でまったりのんびり過ごすのも良い。
昼間は完全に個人として過ごし、夜にお互いの一日を報告しあうのも良い。
大好きなドラマについて語り合ったり、共通の友達を呼んで遊ぶのも良い。
それぞれが何ら変な事じゃないし、それぞれが楽しく過ごしていることも伺える。
そこへ全く違う「日常」を過ごしてきた人物が混ざった時に、「ああ、なんだか居心地が悪いな」と感じてしまう。
この映画で面白いのは、ベンの大甥であるジョーイの存在だ。
ジョーイはフランス語に強い愛着があり、それを共有できる友人になかなか恵まれない。
本人の嗜好ははっきりしているのに、それに見合うパートナーを求めにくい様子と、そんな子どもの状況を見かねてセラピーを受けさせようとする親、というのは少し前なら性的マイノリティとして登場するのが常だった。
今作ではゲイカップルが2組も登場しているので、ジョーイの孤独を「性」ではなく「知性」の嗜好としているのが面白い。
同年代の友達に恵まれず、孤独を深めるジョーイにベンは尋ねる。「人を愛したことはあるか?」と。
愛なのかはわからないけれど、気になる女の子の存在を明かしたジョーイに、ベンは必ず声をかけろ、とアドバイスする。
ベンとジョージは共に芸術を愛し、共に語らい、共に酒を飲み、お互いがお互いの苦楽を一番間近で見聞きしてきた「魂の伴侶」だ。
しかし、それは初めからピッタリとはまりこんだ形ではなかった筈だ。
違う相手と過ごしたり、相容れない時もあった。そういうズレやすれ違いを重ねて、少しずつ愛は日常になっていく。
ジョーイは若く、人生は長い。魂の伴侶は長い人生の中で少しずつその存在を増していく。それにはまず相手がいなければ始まらない。
離れて過ごしたことで、ベンとジョージは片割れを失くしたような寂しさと辛さに直面する。それはいつか必ず訪れる別れだ。熟年ならその思いは尚更だろう。
図らずも「喪失」を前もって経験したことで、それでもやはり愛する人のいる素晴らしさ、何よりも得難い幸福について、思うところがあったのだと思う。それがまだ少年であるジョーイへのアドバイスに結びついていく。
ベンとジョージが愛しあう様は、エリオットとケイトを結婚へと導き、ベンとジョージが離れ離れになることで、ジョーイの淡い気持ちは形になった。
愛しあう二人が引き離されることで新しい出逢いが生まれるとはなんとも奇妙だが、人生も愛も一筋縄ではいかない奇妙さがある。
ドラマチックなようでいて、生きることと地続きな泥臭さもある。
ベンとジョージの数奇な居候生活の顛末は、「愛することは素晴らしい」と、その人生を持って教えてくれる。