「ゴダールが「ファム・ファタル」と「ノワール」に改めて向き合ってみせた濃密な愛憎劇。」カルメンという名の女 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ゴダールが「ファム・ファタル」と「ノワール」に改めて向き合ってみせた濃密な愛憎劇。
おお、これは80年代のゴダールのなかでも、例外的にストーリーがしっかりあって、観ていてふつうに面白かったな。
難解は難解だけど、ちゃんとぎりぎりのところで、臨界点でせめぎ合う男女のドラマとして成立してる。
少なくとも『パッション』や『ゴダールの決別』あたりの正真正銘の意味不明映画と比べれば、100倍見やすいと思います(笑)。
「ファム・ファタル」(運命の女)というテーマは、『気狂いピエロ』やいくつかの初期作においてもゴダールがある程度意識的に追っていたものだが、これだけ「もともと堅気の男性主人公よりも犯罪的性向が強固で」「圧倒的な性的魅力で翻弄してくる」「関わっただけで猛烈に運命を狂わされる」“ザ・ファム・ファタル”ともいうべき女性が君臨するゴダール映画は珍しいかも。どちらかというと、ゴダール映画の女性は、むしろ騙されたり、翻弄されたりしていることのほうが多いから。
作風がまんまフィルム・ノワールっぽいのも、新鮮だ。
シネフィルとしてのゴダールが、40~50年代のアメリカン・ノワールが大好きなのは知ってたけど、ここまで露骨にオマージュを仕掛けてくるとは。
要するに、戦前・戦中の米ノワール映画で銀行強盗やってたような「社会のはみ出し者」の役回りに、パリの武闘派極左テロ組織を当てはめてみたわけね。
メリメ原作、ビゼー作曲のオペラ『カルメン』を本歌取りして、「確信犯的な極左テロ&強盗集団の女性メンバー」と「警備員」の報われない愛の物語として上書きしてみせたのは、なかなかのアイディアだと思う。
結局のところ、歴史に名高い「男を狂わせる女=ファム・ファタルの源流」をコンテクストとして引っぱってきつつ、ほぼほぼ「フィルム・ノワール」のパロディ以外の何ものでもない映画を撮るという、一石二鳥のアイディア。
ゴダールは、「古典の本歌取りであることを明確に示しながら、そこから如何に逸脱し、べつの次元へと飛翔するか」を常に創作の基盤においていた映像作家だった気がする。
もともとゴダールは『勝手にしやがれ』において、フィルム・ノワールの強い影響下に監督業をスタートさせつつも、その後『はなればなれに』や『気狂いピエロ』などノワール小説を原作とする映画を何本か撮りながら、ノワール本来の有り様からはどんどん離れて、独自色を強めていった経緯がある。
そのゴダールが、久々に商業映画の世界に戻ってきて『勝手に逃げろ/人生』『パッション』の次に撮ったのが、原点復帰ともいえる「ノワール映画」――それもファム・ファタルと、意想外な犯行計画と、計画の破綻と瓦解、そして男女の逃避行を中核に据える、まさにバリバリにジャンル感を漂わせる映画だったというのは、大変に興味深い。
齢を相応にとって、過激な政治的闘争に一区切りをつけて、商業映画に復帰したゴダール。
まずは、いかにも彼らしいひたすら難解な2本を撮りあげて、より「コマーシャルな映画を」と周囲に求められたとき、選んだ題材が「ノワール」フィルムだったということか。
本作を観るかぎり、ゴダールは「コマーシャリズム」についてはけっこう真面目に考えたうえで、いろいろと「譲歩」しているようにも思える。ふだんより「わかりやすい」映画にする、ふだんより「楽しめる」映画にする、既存の観客がゴダールに求めるだろう「男女の駆け引き」をテーマとした映画にする……といった具合で。
彼なりに「エクスプロイテーション」の要素(客をひきつけるためのひっかかり)も考慮して作っている気配も感じられるし。
出だしからゴダール本人が、カルメンの「おじさん」役で登場するのも、ファン・サーヴィスとしてはなかなかに愉しい趣向だ。精神病院に詐病で寄生している元映画監督という役回りも、何となく本人の境遇がオーバーラップしているようで笑える。
で、おじさんの「犯罪」性向は、姪のカルメンにも色濃く受け継がれているという(笑)。
向こうのWikiを見ると、カルメン一味が映画クルーと称しながら大規模な強盗計画を実行に移す設定は、米30年代の伝説的犯罪者ジョン・デリンジャーが実施した同様の犯罪計画を元ネタにしているらしい(映画のなかでそんなこと言ってたっけ?)。Gメン対ギャングの飽くなき抗争というのは、40~50年代の犯罪映画のメインモチーフ。それをそのままゴダールは(当時の)現代パリに移入してみせたわけだ。
劇場型の犯罪者という意味でも、人を惹きつける魅力があるピカレスクという面でも、大衆を煽動すること自体を犯行動機の一部とする点でも、本作のカルメン一味とデリンジャー一党の間には、ある種の共通点があるように思える。
ゴダール自身の出演、派手な銃撃戦に加えて、ニューヒロイン、マルーシュカ・デートメルスの鮮烈なヌードも、立派なエクスプロイテーション要素の一つに数えられるだろう。
ゴダールは当初カルメン役に選ばれたイザベル・アジャーニに、撮影に入ってから逃げられている。代打で見つけてきたマルーシュカは、まさにファム・ファタルを地で行く魅力を発揮して、ゴダールの大抜擢に見事にこたえてみせた。少女性と成熟した女性性、純真さと穢れを兼ね備える、不思議な魅力をもった本当にいい女優さんだ。
いたいけな面差しに、少したるんだ目袋。
少女のような肢体に、ヤマアラシのような陰毛。
ニンフェットな要素と「ただれた」部分の混じりようが絶妙で、こたえられない。
裸体がしっかり「カルメン」のキャラクターの「ファイナル・アンサー」となっているのだ。
それと、あの縛られたカルメンが男子用小便器で用を足す、鮮烈なシーンのインパクト!
あれはふつうに、映画史上に残る「名場面」だよね。
それと観ていて思ったのだが、海が出てきて、老いたアーティストの別荘があって、望遠で撮られる肉弾戦があって……この映画のロケーションって、通例は『気狂いピエロ』っぽいってきっと言われてるんだろうけど、なんかロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』っぽくもあるような。そういやあの話も、本来は正義と悪の側に分かれる者どうしの結ぶ絆と、出てくる男たち全てを翻弄するファム・ファタルの物語だった。
BGMはなぜか作中に登場するカルテットがずっと練習している、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲(ビゼーの曲は口笛でハバネラが出てくる程度)。
ゴダールって、こういうクラシックの使い方多いよなあ。バッハとか、『悲愴』とか。
もっぱら、第9、10、14、15、16番の断片が四六時中流れていて、カルテットの練習シーンは、カルメン一派の犯罪計画の進捗と平行モンタージュで呈示される。
カルテットと極左集団の並列描写は、カルテットに所属する主人公ジョセフ(=ホセ)の妹クレア=清純で献身的な「聖女」と、カルメン=奔放で裏切りに満ちた「悪女」の対比と呼応している。両者はそれぞれ、映画のカタストロフに向けて緊迫の度合いを深め、それぞれの「本番」へとなだれ込んでゆく。血腥い銃撃戦が展開するなかも、演奏をやめないカルテットは、なんだか『タイタニック』みたいだ。
その他、「部屋にフランス人はいますか??」と叫び続ける狂人とか、トイレでカルメンのエロすぎる痴態を目撃しながらヨーグルトを指でほじって舐めつづける親父とか、「お嬢様」を決め台詞とする謎のホテルマンとか、脇の登場人物全般にネタ感が強く、観ていて飽きさせない。
ラストのあっけなさ、唐突さにも独特の味があって、僕は嫌いではない。
後期ゴダールの入門編として、おすすめの一本だと思った。