「見終わった後の不快感の理由」映画 聲の形 i22さんの映画レビュー(感想・評価)
見終わった後の不快感の理由
(Netflixで視聴、原作漫画未読)
ストーリーは、主人公の石田くんが小学校時代のいじめの加害と被害を経験し以降他者との関わりを絶ってきたが、過去と徐々に向き合い、自分自信の弱さに気づき他者を認め生きていこうとする。
いいストーリーだと思う。
アニメーションも美しく、十分世界観に没入することができる。キャラクターも魅力的で感情移入できる部分もたくさんあった。
だが、これは何がテーマか?何を言いたのか?となると途端によくわからない。理由はテーマと内容に一貫性がないからである。
この映画の一番の問題はこれがコミュニケーションがテーマであるということだ。ストーリーは魅力的なのに、それを動かすテーマの掘り下げが浅く、むしろ偏見を助長するのではではないかと思う。
コミュニケーションの齟齬によるいじめ、いがみ合い、誤解という問題をストーリー上では解決したように見えるが、根本的な問題は一切解決してないし、しようとしていない。
登場人物は「良い人」ばかりではない。実際に偏見を持った人間は多く存在するのでそれは良いのだが、劇中の植野さんが発する「あんたがいなければ、こんな事にはならなかった」というセリフを誰も否定できていないのはかなり問題である。
植野さんの言うように西宮さんはろう学校に行けば良かったのか?この答えは劇中にはないが、もちろんそれは間違っている。
じゃあ何が悪かったのか。
西宮さんが空気を読まないからか?植野さんが発しているサインを西宮さんが無視したことか?いじめられる子供に原因があるのか?
違う、最も大きな原因は大人が子どもを軽視したことだ。このいじめは担任と担任の存在を許す他の大人たちの責任である。確かに担任の無関心や無理解な態度は描かれるが、大人の責任を十分言及していないために問題がいじめられた子やいじめてしまった子の責任のようになっている。
西宮さんという存在は他の生徒にとって今までのコミュニケーションでは上手くいかないという混乱とストレスを招く。それに対応するために必要なのは知識と理解である。手話の授業の場面で、植野さんが「なんで筆談じゃダメなんですか」と先生に質問したときの答えが「その方が西宮さんが楽だから」というセリフには呆れ返った。これがこの映画を作った人間の理解なのか。
高校生になった子供たちが再会した時もこの知識による成長は描かれなかった。最も描かれるべきは再会ではなく、石田くんが手話を勉強して知識を得て西宮さんを理解しようとしたことだったのではないか。なぜ鯉に餌をあげたり、遊園地に行くことで打ち解けるような表面的なことで問題を解決しようとするのだろう。
登場人物の「良い人」ではない人を否定することは容易いが、なぜ彼らが誤解や偏見を捨てられなかったか考えて欲しい。
良い映画は他にもたくさんある。
だが、もしこの作品を大人が子供に見て欲しいと思うなら、この映画に登場する大人同様に子どもを軽視していると私は思う。
(コメントを受けて補足)
私は聴覚障害について知識不足なので「空気を読まないのではなく、読めない」という事がどういうことなのか正確には分かりませんが、聴覚という健常者が当たり前に使用している機能は、他者との距離感や気持ちを読み取る事などの聴覚以外の能力にも貢献しているのかもしれません。だから西宮さんのコミュニケーション方法がクラスの中で違和感を周りに抱かせるのだろうか思いました。
コメントを書いて頂いた方が指摘しているように、映画には説明不足な部分があるのは理解できます。その説明を省いてまで既存のシーンを入れた製作者の意図はなんだったのでしょうか。その意図の予想はレビューに書いた通りです。
私たちがこの映画を見ることによる聴覚障害や手話の理解は、西宮さんの周囲の人たち、つまり石田くんや植野さんが西宮さんを理解する過程と同じはずです。そこが省略されてただ青春ぽいことをする若者たちが描かれて、みんながなんとなく打ち解けて、おしまい!なんてのは論理的にも倫理的にも私は納得出来ません。
いい作品ですが、私も不快に感じた部分が沢山あります。
とにかく説明不足なのです!
ちなみに硝子は「空気を読まない」のではなく「読めない」のです。
聴力障害は単に「聞こえない」だけではない・・という説明が一切ないので、どうして硝子が「ごめんなさい」を言い続けなくてはいけなかったのかも映画を観ただけではわからないと思います。映画の中で補聴器が途中から片耳になっている理由についても一切語られてないのでお分かりにならないと思います。これを機会に手話や聴力障害について理解が広まってくれるといいのですが・・
参考 https://zundad.com/koenokatachi-hearing-aid/