劇場公開日 2015年12月11日

  • 予告編を見る

「マララとは、パキスタンのイスラム教スンニ派の家に生まれ、 17歳と...」わたしはマララ あきあさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0マララとは、パキスタンのイスラム教スンニ派の家に生まれ、 17歳と...

2015年12月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

マララとは、パキスタンのイスラム教スンニ派の家に生まれ、
17歳という史上最年少の若さで2014年のノーベル平和賞を受賞した少女マララ・ユスフザイのことだ。
映画の原題は「He nemed me Malala」で、
マララとはアフガニスタンのパシュトゥーン人の少女で、
イギリスのアフガニスタン侵攻の際、逃げる人々に抵抗を呼びかけ、侵略者に殺された実在の人物(マイワンドのマラライ)にちなんで、父親によって命名された名前だという。
この映画はマララと父親との固い絆をメインテーマとして、描かれている。
マララさんの活動はノーベル賞で有名になり、メディアにもしばしば取り上げられているので、ここでは書かない。
面白かったのは、マララさんの父親のジアウディンさんだ。
ナレーションの一部をこのジアウディンさんが担当している。
映画を見ていて気が付いたことがある。
彼は自分の娘をママママララと呼ぶ。
吃音、いわゆる、どもりなのだ。
彼は教育者を夢見て学校を開設した。しかし、一家の住むパキスタンのスワート渓谷にイスラム教原理主義勢力タリバンがやってきて、暴力と恐怖によって支配を始めた。タリバンは次々と学校を爆破し、女性が学校へ行くことを禁止した。これに異を唱える人びとは次々に殺されていった。
声を上げれば殺される、そんな中で彼はどもりながらタリバンを批判する炎の演説で人々に暴力への反対を表明する。
ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』でこういった。
「自分の道徳は、どもりながらぶつぶつ語るものだ 。」と。
この一節を思い出した。
吃音でも語らなければならないことがある。
語られた内容よりも、吃音というその作法のほうが重要なのだ。
そのとき、このような倒錯した思いが胸に去来した。
マララさんの生き方は大変立派であるし、若いのに、英語の演説はシンプルではあるけれど、強く訴えるものがある。
ただ、その主体的な自立を説く思想は西欧の啓蒙主義の域を出ないものであって、その限界とこれに対する批判から、イスラム原理主義がつけこまれる余地があることもまた事実であると思った。暴力は論外だとしても、原理主義の主張にも汲むべきものが少しはある、というのが私の感想だ。
もちろん、タリバンは許せない、という固い決意のほうが大きかったのもまた事実であるが。
ちなみに女性は自立するな、と言いたいわけではない。
自立の仕方(作法)が問われるべきだ、と考える。
どもりながら伝える、というジアウディンさんの作法は、
西欧キリスト教を否定するニーチェの回路につながってしまったということだ。(当人の意図はともあれ)
そして、命名のもととなったマラライは侵略者のイギリスに殺された。少女マララはタリバン殺されかけたところをイギリスの医療チームによって助けられた。歴史の皮肉と言ってしまえばそれまでだが、侵略者はどちらだ、という木霊のような問いかけの幻聴も聞こえてくるようだった。

あきあ