「夕暮れと朝焼けの物語」ハッピーアワー 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
夕暮れと朝焼けの物語
私の家族は映画を観ながらよく寝る。8割は寝る。(最近では『シビル・ウォー』で寝てて、すごく面白いのに睡眠障害ではないかと心配になった。)
本作上映時間、5時間27分。
プロの俳優さんではない方々が主演。
冒頭、公園のシーンがあまりにも棒読みで心配になる。これで5時間持つの?と。
朗読会のシーンなど眠気さそってんのか?と思わせる場面も延々と続く。
確実に寝るだろうなと思いながら家族と一緒に観た。が、一睡もしなかった。映画に釘付けだった。凄い映画だった。
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「ハッピーアワー」。
居酒屋などで「ハッピーアワー」と称してビール半額などのサービスをやってたりする。たいていは開店まもない夕暮れ、17〜19時くらいだろうか。
本作は、30代後半、人生の夕暮れにさしかかった女性たちの物語。
夕暮れ…昼とも夜ともつかない。変わり目であり分岐点の時間帯にさしかかった人たちの物語。
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親友で何でも分かり合っていると思っていた、あかり、桜子、芙美、純の4人。だが、互いに知らない素顔が少しずつ見えてくる。
最初は、アマチュアの方々の、こなれてない硬い演技が気になってしょうがなかった。だが所々、彼女らの真情が垣間見えるような、生々しい表情が映し出され、そのギャップにドキっとさせられる。彼女らの硬い皮を剥いで素顔を掘り出すような臨場感がある。登場人物たちが役の設定上被っている「硬い皮」であり、演者本人の皮でもある。「素顔を晒した」とこちらが感じても、それが本当の「素顔」かは判らない、判ったつもりは許さないスリリングさがある。
桜子、純が連れ立って街中を歩くシーンがあって、その姿があまりにも街並になじんでいて(有名は俳優さんだとどこかしらオーラがあって群衆の中で目立ってしまう)、ああリアルだなあと思う。観続けるうちに,私の知人もこういう表情するなあとか、前にどこかで会ったことあるような人たちだなあという親近感・既視感も湧いてくる。そういう意味でもリアルである。リアルな存在感が増していくのだが、その一方、麻雀のシーン(「はじめまして純です」)やクラブのシーン(担ぎ上げられるあかり)など、普段の生活ではこんなことしないだろうというシーンもあって、彼女らがリアルな人物ではなく、映画というフィクションの世界の住人であるという当たり前のことに気付かされたりもする。どこにでも居そうで、どこにも居ない人たち。
彼女たちを捉えるアングルは、突発的なハプニング的なものではなく周到に考え抜かれたものであり、構図も極めて映画的な企みに満ちている。リアルさとフィクショナルな映画的企みが混然一体となって迫ってくる。
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終盤、芙美が朝焼けをバックに歩くシーンが印象的だった。
人生の分岐点にさしかかった彼女たちは「選択」する。
分岐点で惑って立ち止まっていた彼女らの時間が再び動き出したような気がした。ああ、これは人生の夕暮れの物語ではなく、何かが動きだし始まる物語だったのだと思った。朝焼けの物語だったのだと。彼女らの選択が「良かったのか・悪かったのか」が重要なのではなく(この映画は「判ったつもり」で断を下さない謙虚さに満ちている)、始まる事が重要だったのだと。
女性たちが毅然と歩き始めるなか、対する夫たちは分岐点で立ち止まったままだ。その対比もまた、残酷さと隣り合わせの映画的な面白さに満ちている。