裁かれるは善人のみのレビュー・感想・評価
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巨大で恐ろしいリバイアサンの正体は
原題は「リバイアサン」意味は国家主権への絶対的服從を説いたイギリスの政治哲学者ホッブスの著書名。聖書に登場する海の巨大な生物からの引用である。
つまり、ロシアという巨大な国家になすすべなく蹂躙される姿を描いた物語だ。
本作の監督であり脚本も手掛けたズビャギンツェフがニクいところは、この内容の中でも主人公コーリャを絶対的な善人に描かないことだ。
コーリャに落ち度があるように見えるから終盤までどう転ぶのか分からず面白い。観ているコチラがコーリャに同情しすぎないように絶妙にできてるんだな。
とはいえ、冷静に判断するならば、冒頭でコーリャに突きつけられる理不尽は、相当酷いものであり、コーリャ自身も、少々荒っぽい性格ではあるものの断じて悪人ではない。
コーリャの妻の殺害の犯人がコーリャだと思っている人もいるようだ。ハッキリと示されているわけではないので解釈は好きにすればいいと思うけれど、私はこう思う。
コーリャの家から指紋の付いた凶器が出て、コーリャは息子の犯行だと思った。だから拘束されることを素直に受け入れたのだ。もちろん真の黒幕は市長である。
近所に住む友人の警官がいるが、彼はコーリャを陥れる手助けをしたと思われる。具体的にはコーリャに不利になりそうな、キャンプでの「殺してやる」というコーリャの発言を証言をした。
実際、コーリャの行動を見ていれば彼が妻との関係を修復したいと願っていることは容易に想像がつく。咄嗟の感情的な発言よりも信憑性がある。
そして何より本当に恐ろしいのはエンディングだ。
教会で神父が話す場面。そこには市長をはじめ市長の部下や判事など様々な権力者たちが集う。
人民の最後の救済の場所であろう教会でさえ国家から独立することなく権力者たちとズブズブなのだ。
弁護士で戦地を共にした友人は妻と不倫中。
神を信じず国家に反抗しようとしたコーリャはずっと一人孤独であったのだ。
本当の意味でコーリャを助けようとした人は一人もいない。端から勝ち目などなかったのである。
ズビャギンツェフ監督の特徴は乾いた画からにじみ出る恐怖感かなと思う。
普通、雄大な自然を映し出されたら癒しのようなポジティブな印象を受けるものだが、自然と同時に映り込む、巨大なクジラの骨、船の残骸、それらは恐ろしい終末世界にしか見えない。
特に何もなくとも常に「怖い」と感じてしまう。ホラー映画などでワッと飛び出て驚かせにくる緊張感に似ている。身構えてしまうんだな。
その怖さというのは突き詰めるとロシアのことであり、ズビャギンツェフ監督はロシアは冷酷で恐ろしいものと考えているようだ。
初めてのズビャギンツェフ監督の作品を観たときは少々オーバーでは?と思ったものだが、近年のロシアを見ているとあながち間違ってないんだなと納得してしまう。
神は救ってくれますか?
長い。
ダンサーインザダークとまでは言わないけど、
救いのない話。
力のない人達(善人かどうかは分からないけど)は救われず
力のある悪人は救われるという。
ところどころで、
神を信じるのか、というシーンがあり、
この映画では悪人は神を信じており
結果的には神を信じた悪人が救われた。
果たして神は信じるの人を救うのか、
すべての人を救うのか、
信じない人は救わないのか。
神父も「あなたの神は分からない」と。
すごく皮肉的な話になった。
しかしロシア人、ウォッカ飲み過ぎ。
初ロシア映画
キャッチーなタイトルが忘れられず、ついに見に行ってしまいました。しかし、予想していたよりは暗い気持ちになりませんでした。というのも、主人公は別に善人でも何でもなく、腐敗した社会の一構成員に過ぎないため、主人公の体験する悲劇にさほど憤りを覚えなかったからです。
市井の人は自滅するのみなのか・・・
ロシアの海辺の小都市。
入り江に臨む家に祖父の代から暮らすコーリャ一家。
思春期の息子と後妻との三人暮らし。
自動車修理工を営むコーリャであるが、さほどの収入もなく、妻リリアが近くの魚工場に働きに出ている。
そんな暮らしの中、コーリャ一家の土地家屋が市の公共事業のために接収されることになった。
理不尽な市の仕打ちに対して、コーリャは兵士時代の後輩でいまはモスクワで弁護士を営むディーマの手を借りて、市を訴えるのだが、その訴えは棄却されてしまう。
ディーマは市長の横暴行為の証拠を握っているので、それを利用して、コーリャ側に有利になるように取引をしようとするのだが・・・というハナシ。
ここから、コーリャ側と悪徳市長ヴァディムとの対決が丁々発止と繰り広げられるのかと身構えていると、ありゃりゃ、そんなことにならない。
まぁ、丁々発止の対決合戦が始まれば、通俗ハリウッド映画っぽくて楽しめたかもしれないが、そんなことにならない。
映画は、コーリャの妻リリアとディーマとの不倫話に展開していって、権力を持つ人と持たざる市井の人という図式ではなくなって、なんだかよくわからない。
そもそも、権力を持つ人と持たざる市井の人、というような判り易いハナシではないのかしらん。
たしかに、コーリャとヴァディム市長が対峙するのは一度きり。
コーリャの訴えが棄却され、ヤケ酒を飲んでベロベロのコーリャと、これまた祝杯をあげてベロベロのヴァディム市長が、ヘベレケ対決するだけだ。
このシーン、あまりにヘンテコすぎて、噴飯爆笑してしまったが、他の観客は笑っておらず、どうも笑うところではないようだ。
このシーン以降、どことなく可笑しいシーンが散見する。
暴行容疑でコーリャが留置場に入っているのを幸いにと、リリアとディーマの不倫のシーンも性急で可笑しい(コーリャの息子がリリアを「猿」呼ばわりする伏線はあるので、以前からの関係だと察しはつくが)。
コーリャ一家とディーマが、友人の警官の誕生日に彼らの一家と、射撃&バーベキューに出かけて、射撃の的にロシアの歴代指導者の写真額を持ち出すあたりも可笑しい。
でも、どうも笑う感じじゃないんだよね。
その上、権力側と対決するはず(と期待しているンだが)のコーリャ側が、なんだが勝手に自滅していってしまうについては、ちょっと茫然としてしまいました。
最後の勝利を手にしたヴァディム市長が参加するロシア正教会の礼拝での司教のことば、「国家、宗教、権力の三位一体」を正しく善いものとする説法は、ロシアに対する批判のダメ押しなんだろうけれど、これはどうにも冗長に感じました。
ズビャギンツェフ監督の前3作と同じく今回もどうにも不満なのは同じなのですが、今回がいちばん不満、魅力がなかった。
巻頭・巻末の風景描写や浜辺に打ち上げられた鯨と思しき巨獣の白骨などの驚くべきショットはあるのですが、これまでの作品では、途中途中に過剰とも思える長廻しやカメラワークがあって、それが魅力だったのだけれど、今回はそれもありませんでした(感じなかっただけかしらん)。
善悪を知るには事実を見るべし?
なんという圧倒的敗北感!
ここまでされたら
かえってすっきりするわぁ…
他人事として観てる分にはだけど。
善悪を知るには
事実を見なければならない
というようなことを
司祭さんが宣うのですが
もはや権力は
その事実さえも歪めてしまう…
いわんや善と悪も
混沌としてしまうのですね~
観てるときには
気づかなかったのですが
パンフレット読んで
オープニングと
ラストシーンのからくりを知り
かなりゾッとしました。
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