「「描く」ことへのこだわりが革新的な映像表現を生んだ」この世界の片隅に AuVisさんの映画レビュー(感想・評価)
「描く」ことへのこだわりが革新的な映像表現を生んだ
昭和の戦時の暮らしを描くアニメで、これほど新しい映像体験になるとは!郷愁、お涙頂戴のありがちな作品かと思いきや、当時を題材にした従来のアニメとは一線を画する傑作だ。
主人公すずは、描くことが大好きな女性。親に縁談を決められる時代、女性の自由意志がろくに認められない世界に、自分の存在を刻むかのように、目にしたものを絵に描く。すずが描く風景画は、時にアニメの中の実景を書き換える。その表現手法が新鮮だ。
小気味よい編集テンポも新味に貢献。市井の人々の生活を語るならゆるいペース配分もありだろう。だが、日常を淡々と、ごく短いカットで次々に描写を連ねる手法は、じっくりと共感することを拒むかのよう。しかし、物足りなさがあるからこそ、二度三度と観賞したくなる。
能年玲奈=のんの声の存在感も大きい。すずが「あまちゃん」のヒロインに通じる天然系キャラであることも、感情移入のしやすさに寄与している。
「この世界の片隅に」に自分が感じた違和感は、「Let it go」と「Let it be」の違いのような気がします。
「この世界の片隅に」に一貫しているのは「受け身の姿勢」で自分以外のものにすべてを委ねる感じですが、「千と千尋の神隠し」や「君の名は」では、自分の心の声(良心)に従うところです。神や仏は自分の外側にあるものではなく自分を含めた内側にある筈なので。神が外に居ると思うことは、偶像崇拝と同じで自分の心が創った偶像を拝むことになると思います。神道はそのことを知っていたので神社にあるのは鏡だけで、鏡に映った自分に対して祈っていた筈です。他力も惟神も受け身ではないと思います。すべてのものの中に仏性や神が宿るということは自分を含めて神や仏であり、エゴが消えた時にはじめて神我と繋がることが出来る筈です。自分の外に神を見るということは、自分のエゴが想像して創った神を見ていることになるのでエゴが消えることはなく「何でも神の言われることを聞きますのでどうか助けて下さい」ということになり、その結果として世界の片隅に居るちっぽけで無力な人間になってしまうような気がします。
この映画の良い所は、テレビドラマの「おしん」、フォークソングの「神田川」、渡辺和子著書の「置かれた場所で咲きなさい」と共通するものだと思います。これは確かに一つの真理であり大切なことだと思いますが、同時に今の現実は自分以外の何者か(神?)によって決められていて未来は変えられないかのような印象にも受け取れてしまいます。同じような時代背景で「竹林はるか遠く」があります。こちらは実際の体験談でもあり、いくつか奇蹟的な体験もしていますが、なにより自分たちの強い意志が未来を切り開いていくところに強い感動を覚えました。「置かれた場所で咲きなさい」も一つの真理であり、それは現実から逃げずに受け入れることだと思います。「千と千尋の神隠し」の中でも「嫌だとか、帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど、働きたいとだけ言うんだ。」とハクが千に言うところに表現されています。しかし、それは真理のひとつで「把住」と「放行」の「把住」であり、もう一つの真理(カタワレ)とは、いわゆる「願望実現」である「鴎のジョナサン」や「内なる巨人を呼び起こす」だと思います。「天使と悪魔の戦い」(悪魔とは制約や制限によって造りだされた虚構のこと)やアルマゲドンとは、自分の中のエゴ(肉体としての自分)と良心(神我)との戦い。「天岩戸隠れ」とは五感の影響で良心(神我)を忘れた状態。「置かれた場所で咲きなさい」は実はその場所に置いたものは、自分自身であることに気づくことです。本当の自分とは、すべてと一つであり神であり仏であることに気づくこと。本当は、「この世界の片隅に」に居るちっぽけな自分ではなく(油屋にいる千やハクではなく千尋やニギハヤミコハクヌシであることを思い出すこと)というもう一つの真理が描かれていないと思います。なのでこの映画は自分としては何か好きになれない気がします。あと、すずが絵を描くことを簡単にあきらめてしまうことです。右手を失っても左手や口でも、現在ならCGを使えば義手を使っても絵を描くことは出来る筈です。このままでは死んだあとで必ず未練が残るような気がします。今の現実は神によって与えられた試練ではなく、自分が体験したいからその現実を創っていることに気づけば不可能を可能にすることも出来る筈です。「井の中の蛙大海を知らず」奴隷状態とは自分で造った思考の制限から自由になる事だと思います。