劇場公開日 2016年11月12日

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「背負いきれないやるせなさ」この世界の片隅に 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5背負いきれないやるせなさ

2016年11月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

幸せ

第二次大戦の戦中から戦後の国内の庶民の生活を描いた映画だ。広島市の江波地区と呉市を行き来しながら物語が進む。

同じ設定で真っ先に思い出されるのは新藤兼人監督の「一枚のハガキ」(2011年)だ。ヒロインを演じた大竹しのぶが「つかあさい」という広島弁を使っていたので、やはり広島県が舞台だったと思う。山奥の村には戦争の直接的な被害はやってこないが、村の男たちが一人、また一人と兵隊にとられ、そのたびに村人たちが「勝ってくるぞと勇ましく」ではじまる「露営の歌」を歌って送り出す。働き手を失った村は徐々に疲弊して、他との行き来も殆んどなく、ほぼ自給自足、最後はただ生きているだけの生活になる。

山田洋次監督の「小さいおうち」(2014年)も、やはり戦前から戦後までの庶民の生活を描いた作品だが、こちらは戦時下の不倫や、庶民がいつしか国家の大義名分に精神までも侵されていく様子を描いたドラマだ。戦時下でも普通の暮らしが続いていたことをこの映画で初めて知った。主演した黒木華がベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したのは周知のところである。

降旗康男監督の「少年H」(2013年)も同じく戦前から戦後の国内の家族を描いた作品で、主演の水谷豊が、国家の大義名分に踊らされないリベラルな精神の持ち主を好演していた。

今年になって日本で公開されたアメリカ映画「リトル・ボーイ 小さなボクと戦争」もやはり太平洋戦争の末期におけるアメリカの小さな町の庶民の生活を描いた作品だ。

パッと思い出すだけでも4つの作品がすぐに浮かぶくらいだから、第二次大戦時の庶民の暮らしを中心に描いた映画はまだたくさんあるかもしれない。
これらの戦争映画を観て了解するのは、庶民にとって戦争は天災地変と同じようなものだということだ。敵も味方も理念も大義名分もイデオロギーもない。
だんだん生活が苦しくなり、周りの男たちが戦争に駆り出され、学校は教練所となり、庶民はいろいろな役割を与えられる。そしてある日たくさんの飛行機が飛んできて、爆弾を落とし、家が燃えて家族が死ぬ。友だちが死ぬ。誰も助けてくれない。やるせなさで胸がいっぱいになるが、黙って涙を流すのだ。

或いは、遠くの国で新型爆弾がうまく爆発して甚大な被害を生じせしめたことを知る。やったと思う。しかしあまりにもたくさんの人が死んだことを知って、やるせない気持ちになる。

この映画の主題歌としてコトリンゴが歌う「悲しくてやりきれない」は詩人サトウハチローの歌詞に自殺した加藤和彦が曲を書いた名曲だ。コトリンゴのとても落ち着いたミックスボイスが「悲しくて悲しくてとてもやりきれない このやるせないモヤモヤをだれかに告げようか」という歌詞を際立たせる。この歌の「やるせない」という歌詞がこの映画のキーワードだと思う。

庶民にとって戦争はあまりにも理不尽だ。かといって誰を責めたらいいのか。自分自身だって、ついこの間まで大本営発表に日の丸を振っていたではないか。誰も責められないのかもしれないが、不幸の重荷は確実に自分を待っている。主人公すずが敗戦を告げる天皇のラジオ放送のあとで慟哭する姿は、「一枚のハガキ」の大竹しのぶが慟哭したのと同じで、行き場のない悲しみと苦しみを抱えすぎて、叫ばずにはいられなかったのだ。夫から「すずはこまいのう」とつくづく言われるほど小さなすずの肩に、言葉にできないやるせなさが重くのしかかる。やるせない、兎に角やるせない。

呉の空襲、焼夷弾や時限爆弾、8月6日午前8時15分のリトルボーイの爆発、天皇のラジオ放送と、我々が知っている通りに物語は進む。映画の中ですずが描いた広島県産業奨励館の絵が何度も出てくる。それが原爆ドームになってしまうのは、知っていても胸が痛くなる。
たくさんのものを失くしてしまったすずだが、いまは思い出の橋の上にいる。映画の冒頭で子供のころのすずが、ある男性と出逢った橋だ。その男性と一緒にいる。いまはすずの夫だ。賢くて心の広い夫だ。背負いきれないほどのやるせなさを抱えたすずを、夫の愛が優しく包む。映画の最初から、すずはずっと夫の愛に包まれていたのだ。

耶馬英彦