「作品賞を取れなかったのが何となく分かる」ラ・ラ・ランド ヒロさんの映画レビュー(感想・評価)
作品賞を取れなかったのが何となく分かる
ラ・ラ・ランドはデミアンチャゼル監督の前作セッションから一貫している、というかこの映画を見てこの監督のテーマ性がわかってきた。セッションを見たとき主人公の成長(変化)を肯定的にも否定的にも描いていない、と思ったがそうではなかった。
この映画のテーマは「何者かになるには何かを捨てねばならない」ということである。
この映画のテーマは二つの場面で語られている。セブがミアを誘ってジャズを見ながらジャズについて語るシーンとミアがオーディションで叔母について語る独白シーン。この二つがこの映画の肝である。
しかしこの映画、何か女性への未練のようなものを感じるのだ。これを往年のミュージカル映画の演出で見せるので映像は華やかなのだが鑑賞後にジメっとした後味が残った。そしてこの映画のセブはおそらく監督本人だろう。
デミアン・チャゼル監督の映画を鑑賞すると登場人物は輝かしい成功を成し遂げているのにどこか悲しい気持ちになる。それは登場人物達が理想とする自分になったときに、何か人間性や幸せのようなものを捨てて成し遂げているから。ウィキペディアからの抜粋で申し訳ないが、ラ・ラ・ランドとは「現実から遊離した精神状態」を指すとのこと。この記事を読んで腑に落ちた。
「現実から遊離した精神状態」=夢追い人=狂人
なのだ。
セッションと共通するがデミアン・チャゼル監督の登場人物達は既に能力を持っている。その能力がいつ発現するか?それは何かを捨てて狂人になったときだ。
しかし、世の中には何かを捨てても何者にもなれない人も、何も捨てないで何者かになれる人もいる。
成功と喪失。何かを得るためには狂人となり何かを捨てなければならない。
デミアン・チャゼル監督にとっての成功とはそういうものなのだと思う。
クライマックス、彼らはあったかもしれない二人の幸せな未来をわざわざ見せている。
見せなくてもいいのに。あれは一体、誰が見ているものだろうか?
私はセブが曲を弾きながら思った光景だと思う。ミアではない。
何者かになるには代償を払わねばならない、最愛の人と結ばれない代わりに成功がある、という何というか断ち物の願掛け神社のような話なのだが非常に未練たらしい。本当に彼女を愛していたら、成功を祝福していたら、あのクライマックスのような幻影を思うだろうか。
またラストは監督にとっての夢追い人の哲学のようなものも感じる。主人公達二人が理想とする自分を目指すために狂人となった。再会した瞬間だけ別の人生を見る。しかし、すぐにまた狂人(ラ・ラ・ランドの住人)となって現実に戻っていくのだ。(わざわざ高速の路線を変更させている。あったかもしれない人生の分岐として)
ミュージカル映画にしたのも夢追い人が見ている現実と捉えているのかもしれない。
私は恥ずかしながらこの作品を未見だった。勝手に往年のミュージカル映画の良作と思い込んでいたのでラ・ラ・ランドが作品賞を取れなかった時に驚いたが納得した。
ミュージカル映画のラッピングに包まれた歪なテーマと未練感情を見抜かれたのだと思う。
ただ本当に惜しい。ミュージカル演出は最高に素晴らしい!セブ(監督)の器が大きければ最っ高の映画になっていた。