禁じられた歌声のレビュー・感想・評価
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イスラム過激主義集団による支配の傾向だけでなく、身近な集団でも起こっている
パキスタン映画『娘よ』にあったように、イスラム過激教派の指導者の指示で、娘を不本意な相手と結婚させられるような場面があり、それだけでなく、女性が顔をベールで覆わないこと、外に立っているだけ、家のなかで歌っていること、男性のサッカー、そして牛飼いと漁師との争いの刑罰が、多くの牛の供出だったり死刑だったりしていた。権力者の理不尽な言い分ばかり通され、正当な反論が認められないのは、イスラム社会に限らず、身近な集団でも起こっている。最後に着飾った女性がバイクに乗って権力者たちの追走から逃げ回り続け、子どもが彷徨う場面で終わるのは、何かに救いを求めているということなのだろうか。
事後に、マリ出身で日本に帰化し、大学学長にもなっている人が、国の歴史的文化的多様性と、それを許容しないイスラム過激主義集団による支配の傾向、「歌」に象徴される口承的伝統の遮断、隣国出身の監督のメッセージへの誤解等を述べていた。「多文化『強制』」という表現もあったが、それが二極化傾向にあり、排他主義的傾向に変化していることを指していたのだろうかとも感じた。前に『ホテル・ルワンダ』の上映会と現地での体験者の講演を組み合わせた会合に出て、さらにその体験者が職場にも来られ、その体験者が運営する国内団体とのお付き合いが始まったけれど、このたびの接点はそれほどではないかな。
辛い世界
こんな生活が本当にあるのなら、もし私がこんな世界に居たら耐えられない。
歌も、サッカーも、恋愛も禁止。
女性は手袋に靴下も強制され、物のように扱われ、自分の意志とは関係なく結婚させられていく。
淡々と進むストーリーは予想できるもので特別驚きは無いが、石打ちの刑には驚かされた。
現代の世界でこんな刑があるのか。
そして裁判とは呼べない裁判。
理不尽さの渦巻く中で生きていく人々。
ラストで両親が亡くなってしまったトーヤの今後を案じずにはいられない。
世界の悲しみの手触りを知る映画。
美しい砂の街が、過激派武装勢力に制圧され、これまでの生活を削り取られる地元の人達のお話です。
マリという国を全然知りませんが、置いてけぼりにはなりません。イスラムの教えに少し明るいとついて行きやすいでしょう。
エンターテイメントとしての洗練からは、かけ離れていますが、アフリカのある場所での現実を知る寓話として、価値があると思いました。
唐突に、首から下を埋められた男女が石をぶつけられて殺されるシーンがあります。逮捕されたシーンがわからなかったので何の罪かがわからなかったですが、あれは恋愛をしたからみたいです。
親が決めて認めた結婚以外の男女関係は罰せられる対象なんだとか。
他にも武装勢力の男(訛った英語話者)が、美しい現地の娘を見初めたので、その娘の親に結婚を申し込むも、武装勢力故に親が拒否します。そうすると、武装勢力の上司が許可して無理やり花嫁を与えたという結果になりました。
つまり、見初められた美しい娘は無理やりごうかんされ、事実上の妻にされたってことでする。
他にも音楽を禁じられたが、隠れて家で歌っていたグループが武装勢力に逮捕され、鞭打ちの刑を受けるなんてシーンもあります。
その歌は多分アッラーと故郷を称える歌なんですよ。
同胞へのこの理不尽な仕打ちってなんなの?という怒りがわきました。異教徒ではない、伝統的な生活を静かに営んでいるだけなのに。
人型の土偶のようなものを破壊するのは(すべきでないとおもうけど)偶像崇拝の禁止という教義上わからなくもない。けどさ。信仰の深度って強制するものではないでしょう?それを強制するのは、自らを侵略者にしてしまうことではないのかな?あなた方は侵略者にはならないはずでは?そのような怒りを持って見つめました。
主人公家族の受難は、お父さん(すげー美形。かっこよかった)の手落ちでもあるので、あれですが、お母さんと可愛い娘には災難です。でも、お父さんの処刑前に家族に会いたいってゆう希望くらい叶えてやんなよとも。それよりあの電源のなさそうな地域で携帯電話って。どこで充電?電波はいるん?という余計なお世話なことがいろいろ気になりました。砂漠での家族の暮らしは幸せそのものだったのにね。美しい音楽と砂漠の模様が素敵でした。
ボールなしでやるサッカーが表す戦いの意志には胸が熱くなり、禁じた過激派がサッカーの話や喫煙に興じる矛盾にモヤモヤしました。過激派もやりたくてやってる感じでもなく、どうしようもなく身を置いていたりもするのかもなあと思いました。
この映画を見たことで、想像の及ばなかった事柄にわずかでも輪郭が与えられたことが、よかったと思います。
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