「乗り越えられない悲しい歴史の重み。難しさ。」ルック・オブ・サイレンス さぽしゃさんの映画レビュー(感想・評価)
乗り越えられない悲しい歴史の重み。難しさ。
「アクト・オブ・キリング」の続編というより、"対"ではないかと思います。というのは、前作が"加害者目線"なら、本作は"被害者目線"だからです。
現在この被害者家族は、行き場のない悲しみや怒りを抱え、加害者達に囲まれて"沈黙"して生活をしています。原題は(監督曰く)この"被害者側の沈黙"部分に迫るといった意味とのこと。
被害者側の視点を担うのは、犠牲になった兄を持つアディ・ルクンさん。
ルクンさんはメガネ屋さんのようで、「検眼しましょう」と言って、加害者宅を回るんです。そして急に「私の兄ラムリを知りませんか?」と切り出します。
被害者と加害者との対峙です。
加害者の殆どは、共産主義者を殺したことを正しいことだと思い込んでいます。なのでまるで武勇伝を語るように、殺人を自慢げに語ります。
特にオッペンハイマー監督はアメリカ人です。
当時は、インドネシアが共産主義者を排除することを、アメリカは好ましいことと思っていました。
当然、加害者はノリノリで、ルクンさんの兄をどうやって殺したか、オッペンハイマー監督に向かって笑いながら説明します。
ルクンさんがその映像を、瞬きもせず見つめているシーンが印象的でした。
ルクンさんは、加害者に復讐したいわけでも、謝罪を聞きたいわけでもないと言います。
ただ「後悔している」の言葉が聞ければ、許せるかもしれないと。
嬉々として殺人を語る加害者達ですが、流石に殺した弟が尋ねて来ると顔色を変えます。ルクンさんは、表情一つ変えずに冷静に聞くんです。
「私の兄は貴方に殺されたんです」
「殺された」という言葉で、メガネ屋と客の関係が、がらっと加害者と被害者に変わります。一瞬にして、緊迫した空気に変わる。
「上から言われてやったんだ。自分には責任がない。やらなければ、自分が殺される。しょうがなかった」
などなどと、責任をどこかに投げやってしまう。埋まらない。加害者と被害者の溝。
加害者達の子供は、「私は小さかったので何も知らない」と言う。
父親が殺人の方法をにっこにこで話している映像や、描いた本の挿絵などを見せられると、「今まで仲良くやっていたのに、何故蒸し返すんだ。忘れて仲良くやろう」と声を荒げたり、逆に「私の父を許して。これからは家族ぐるみの付き合いをしましょう」と優しく猫なで声で提案します。
実はルクンさん自身も、9・30事件後に生まれたのでお兄さんを知りません。
私は加害者と被害者が対峙する部分より、この子供達や事件後に生まれた世代の立ち居地に考えさせられました。インドネシアだけではなく、悲しい歴史を持つ国は日本や他にもあります。
当事者が亡くなった後、その子孫が歴史とどう向き合うか。インドネシアの被害者と加害者の図式だけではなく、民族間、宗教観、国と国の関係の中で、乗り越えていかなくてはいけない悲しい歴史の重み、またその難しさを感じる作品でした。