「受け入れて、泣くしかない」母と暮せば R41さんの映画レビュー(感想・評価)
受け入れて、泣くしかない
この作品で描かれる「母」とはいったい何だろう?
300万人もの人々が亡くなった太平洋戦争
特に原爆によって亡くなった人は、自分の死さえもわからなかったのではないだろうかと言われている。
戦争という悲劇
それは戦時中だけにあるものではなく、おそらく今でも、当時遺族となり未だ生き続けている人にとっては、戦争の傷痕は未だ消えないままなのかもしれない。
「母」とは生き残ってしまった人々の象徴的存在だろう。
生き残ったという幸運とは、心の傷を抱えながら生きねばならぬ苦しみと同じことではないのか?
着るものや住む場所があっても、今日食べることができるかどうかわからない。
夫が結核で死に、長男がビルマで戦死し、医者を目指して勉強中だった次男が原爆で跡形もなくなってしまった。
死体があれば死を感じることができる。
戦死報告と遺品が届けられることで、その死を認めざるを得ない。
しかし、たとえ7400人が原爆で死んでも、その痕跡すらないのであれば、3年たってもなおその死を信じることはできない。
この、「最初の死」を受け入れなければならない苦しみがある。
コウジの婚約者マチ子の存在
彼女は気遣いと義務感もあるのだろうか、一人で暮らすコウジの母を度々訪ねる。
彼女の存在は「母」の生きる力になる。
同時に、いつまでもコウジを思い出させる。
何が良くて、何がダメなのかという思想は、当時は厳格に決められていた。
人々は「泣いたらダメ」とか、「そう思ってはいけない」という風習の中で自分自身の気持ちを抑え込んできた。
「母」もまた同じように習い、自分の本心と風習との狭間の中で自分自身を演じて生きていたのだろう。
マチ子の将来を考えれば、結婚して家庭を築く方がいいと言いながら、それが現実となり、二人が訪問してコウジの仏壇の写真に報告しようとしても、涙があふれ言葉が出てこない。
最後にはマチ子の幸せを見て、「コウジと変わればいい」と本心を漏らしてしまう。
「母」の苦しみと悲しみは、当時生き残った人々の苦しみと悲しみの「本心」を表現している。
さて、
霊となって表れたコウジの目的は何だったのだろう?
一般的に霊となればすべての物事が見通せるというような概念を、多くの日本人は持っている。
しかし、この作品に登場するコウジは当時のコウジのままで、特別な情報は何も持っていない。
ただ、自分は死んだと認識していることと、悲しみに覆われたとき消えてしまう設定がある。
霊にとって悲しみという周波数に陥れば、この世界に出現できないようだ。
コウジとは、生き残ってしまった人々に対する慰めの象徴だろう。
コウジが初めて母の前に現れたとき、その条件が死を受け入れることだった。
「あきらめてくれたから出てこられた」
執着しないこと
執着すれば、霊と波長が合わなくなるのかもしれない。
執着のない純粋な子供には霊が見えるが、大人には見えない。
逆に、コウジがマチ子に執着している。
これが彼がマチ子の前に現れるのをできなくさせているようだ。
コウジはマチ子が他の誰かと結婚することを拒んだ。
しかし考えた末にそれを認めた。
ところが認めたのは言葉だけで、実際には気持ちを押し殺したというのが正解だろう。
母でさえも押し殺していたのだから、コウジが聞き分けよくしただけだったことが伺える。
霊となったコウジでさえも、気持ちを押し殺す方がいいと判断した。
それが理由で、彼はマチ子の前には現れることをしないままだったのだろう。
しかしマチ子は、コウジも彼の母も「自分の結婚」を許してくれたと考えた。
それは、
決して間違いではなく、この世にある人々のあるべき姿だった、だけなのだろう。
コウジは、霊となって母の前に現れ、ひとりぼっちにしてしまった母の話し相手になるが、その内容は過去の想い出ばかりで、決して今後のことは出てこない。
もしかしたら母は、「あきらめた」ことで生きていくこともあきらめたのかもしれない。
物語の中では助産婦をして人の生に関わっていながらも、本心では「あきらめた」時に生きる希望も半分失ったのかもしれない。
最後のつっかえ棒だったマチ子が婚約したことで、本来であればコウジと結ばれ娘となるはずだった彼女を他人に渡してしまったことで、母としての役割を全うできなかった事実を受け入れるしかないことを悟ったのだ。
もう、この世でやるべきことはない。
これが「母」の本心だったのかもしれない。
「母」とは、役割だ。
家族の中の、ひとつの役割であり、大きな使命を持っている人のことを指す。
夫が死んでも母
長男が死んでも母
しかし、次男も死んでしまったら…
その代役をしながら自分自身を奮い立たせていたのが、マチ子がいたからではないのだろうか?
つまり、
コウジは、いつまでも母に母でいてほしかったのだと思う。
コウジは「あきらめたから出てこられた」と言っていたが、実はあきらめたことで母でなくなってしまうのが辛かったんだろう。
これがコウジが出てきた本心だったような気がした。
義理の娘
マチ子は決して「母」をお義母さんとは呼ばない。「おばさん」と呼ぶ。
それは当然まだ結婚していなかったからかもしれないが、マチ子の中にはどうしても「逃げ道」が必要だったのかもしれない。
彼女をお義母さんと呼んでしまえば、二度と結婚しない誓いのようになるだろう。
マチ子にはそこまでの覚悟はなかったと考える。
葬儀の時、コウジは彼女を見かけて「マチ子」と呟くが、母の「行こう」という言葉に促され立ち去る。
この時すでにマチ子にはコウジに対する執着はなかったのだろう。その事の驚きと悲しみが「マチ子」というセリフに込められている。
自分のことを「おばさん」と呼んでいた事に母は気付いたのだろう。
母にはすべてわかっているのでコウジを先へと促した。
マチ子には当時からすでに半分その気はなかったのだ。
マチ子にとってコウジの死はいたたまれないものだったことに違いはない。
しかし、生きている将来のある若者までもが、過去の呪縛に縛られてはいけないと制作者は考えたのだろう。
当時の厳格な思想
言論統制と厳しい取り締まり
自分の気持ちや本心を抑え込みながら生きていた時代
体裁のいいことと本心は違う。
でもどれが正しいのか誰もがわからないでいる。
コウジは従来のコウジのままで登場することで、その正直なおしゃべりの中で、母は自分自身の本心に気づいたのだろう。
母という役割は、コウジの死で終わった。
できれば生涯母として生きたかった。
そうさせてくれたのがコウジの霊だった。
将来のあるマチ子をリリースすることで、母という役割さえも捨てなければならない。
その現実を受け入れることで、誰かが幸せを手にする。
さて、
この作品のタイトルは難解だ。
「母と暮せば」
その意味は当然コウジと母を指す。
母と暮せば、母は母のまま。
母と暮せなくなったことで、母は母という役割を失ってしまった。
母から母という役割を奪い取った戦争
霊になっても母は母だと、コウジは言いたかったのかもしれない。
霊なっても、母は母のままだと、コウジはこの世界のすべてに叫びたかったのだろう。
この、意外にも永遠ではなかった「母」という言葉
死んでコウジの世界で再び母となることができた喜び
「あなたはもう、ボクの世界に来ているんだよ」
コウジに言われて大きな笑顔で喜ぶ母の顔が印象的だった。
「母」という象徴は、最期は喜びの中で迎えられることが、慰めになる。
戦争という傷痕
消しようのない傷
本当に傷ついているのが生き残った人々
監督は、彼らのための慰めを描いたのだろう。
私は当然、この真実を受け入れて泣くしかなかった。
どうしても心を動かされてしまう素晴らしい作品だった。
こちらこそいつも共感とコメントありがとうございます。
考え抜かれたレビューですね。
私なりに簡単な言葉で考えると、母は3回忌を区切りに、息子を
もう諦めようと心に決め、マチコにも、もう3年も経ったのだから
新しい伴侶と新生活をすすめますますね。
母も母の役割を終えようと心づもりをしたのですね。
R41さんのように論理的にレビューを書けないので、
勘に頼ってしまいます。
そして情に流されます。
原作の井上ひさしの「父と暮らせば」のラストは知らないのですが、
バージンロードを母の手を取って天国への階段を昇っていく・・・
このラストはかなり賛否が分かれたようで、この映画は、
山田洋次監督の中ではあまり評価が高くないと思います。
ラストが受け入れられない人が居るようです。
私はキリスト教となんの関わりもありませんが、
R41さんが五点を付けられた柔軟性。
素晴らしいと思います。
好きな映画でした。