劇場公開日 2016年7月29日

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「ゴジラ映画は3:11を背負えるのか?」シン・ゴジラ ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5ゴジラ映画は3:11を背負えるのか?

2016年9月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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興奮

知的

3:11という「想定外」の出来事が起こって以降、映画に限らず、日本の表現者たちは、もがき苦しんでいるように思える。
僕は何度も、あの津波の映像を見た。
現実離れした、しかし、まぎれもない現実の風景は、浅はかな人間たちの、すべての創作物を飲み込んでゆくようであった。
もちろん「ゲ・ン・パ・ツ」もまた「安全神話」という虚構が生み出した、人間の創作物にほかならない。
あの光景は、表現を志す者にとっても、今まで築き上げてきた、あらゆる虚構・フィクションの世界が「何の価値もない」と自然界から「バッサリ」断罪されたかのようだった。
その圧倒的な現実の前に、人間の表現行為など何の役に立つのだろうか? というニヒリズムに陥る。
あの宮崎駿監督も「風立ちぬ」制作中に、スタッフから「津波や地震の絵は描きたくない」という意見も寄せられたという。
本作の総監督は庵野秀明氏である。
庵野氏も、師匠の宮崎監督同様、並外れた時代のセンサーを持っている人だと思う。
本作「シン・ゴジラ」のHPを見ると、庵野氏自身、一時うつ状態となっていたことを告白している。
その人が、あの3:11をどのように自分の中で消化し、映画作品に反映させるのか?
映画会社に請われるまま、なんでもいいから「ゴジラ」を登場させるのだろうか?
怪獣に傍若無人な振る舞いをさせて、都市を破壊し、人々を恐怖に陥れ、人間どもに自然破壊への反省を促す。
そんな安直でステレオタイプな映画を、庵野秀明が作るわけがなかろう!
とあなたが思うように、僕もそう思う。
メイキング映像を見てみる。
庵野秀明総監督が「とにかく面白い日本映画にしましょう」とスタッフに檄を飛ばしている姿が印象的だ。その姿勢に僕は共感し拍手を送りたい。
やはり、映画の第一条件は「面白い事」に尽きるのだ。

圧倒的なスケール感と、造りこみがなされたゴジラの尻尾。
「ぶぉ~ん」と一振りしただけで
「こんな怪獣来たら、もう助かるわけがない!」
と我々観客に思わせる、そのキャメラアングルの巧みさ。
「ゴジラ」というフォルムとアイデンティティーを特徴付ける、ギザギザの背びれ。その緻密な描写は見事だ。
その体の奥底から肌の色が明るくなったり、黒ずんだりする。
心臓の拍動、あるいは呼吸に合わせるかのように、一定のリズムで収縮する、動物としての表皮。
以前のゴジラファンなら、これらのシーンで拍手喝采しただろう。
しかし、運河を氾濫させ、数々の車を押し流し、都市を壊滅させてゆく「ダークヒーロー」である「ゴジラ」
その姿は、リアルであればあるほどに、その嫌悪感もリアルなのだ。
素直に「怪獣映画」「娯楽映画」と割り切って楽しめないのである。
だって我々は、あの日の出来事を、直接間接的に体験しているからだ。
普段は穏やかな「自然」は、時に人間の想像を超える「暴力的な」素顔を見せる。
本作の主役である「新しい」「真の」ゴジラも、自然の暴力的事象から発生した生物なのだ。
本作において、ゴジラという未知の生命体について対応を迫られる政府関係者たち。
その曖昧な態度は、なるべく責任を回避しようという意図が見て取れる。
そこへアメリカから圧力がかけられる。
「日本政府はゴジラに対応できる能力はあるのか?」
アメリカは疑う。
その米大統領特使として、石原さとみがクールな役どころを演じている。
福島原発事故の際、実際アメリカからの圧力があったようである。
その象徴的な例が、あの自衛隊ヘリコプターによる海水の空中散布である。
高い被曝線量の危険性がある至近距離から、海水を原子炉めがけて落下させるというミッション。
あれは文字どおり決死隊である。
アメリカ側は「英雄的な犠牲」を求めていたという。死ぬかもしれない任務について、命令と人選を行う、現場指揮官の苦悩は容易に想像がつく。
危機的状況にあって、欲しい情報は入らず、混乱する政府および対策本部。
本作では「未知の巨大生命体」が襲ってきた、という「想定外の事象」の場合、政府のどの機関がどのように動くのか?
その会議のシーンがおよそ三分の一以上を占めているのである。
しかしこれが退屈なシーンとはならない。
緻密な取材をもとに書かれたシナリオは、通常の映画の二倍の分量になったという。
それは、専門用語を駆使し、早口で議論を闘わせる官僚たちの会議を「群像劇」として描くために必要だったのだ。
政府のエリート官僚に長谷川博巳や竹野内豊をキャスティングしたのは、ちょっと意外だったがすぐに納得がいった。
彼ら官僚は主役として出しゃばらない。政府の顔として世間に出るのは、あくまで「大臣」なのである。
エリート官僚たちは大臣を陰で支え、必要に応じて影響力を行使する。まさに切れ味鋭い、カミソリのような知的「影武者」なのだ。
その役どころとして長谷川博巳、竹野内豊、両氏の起用は的を得ている。
また、注目すべきは本作の上映時間である。
119分。台本は通常作品の二倍の厚みがある。
しかし、完成作品は2時間より、1分だけ短いのである。
この「1分だけ短い」という事に、僕は庵野監督および、樋口監督の「プロとしての意地」を感じる。
「ゴジラ映画」なら、途中休憩も入れて3時間以上の大作にする方法だって許されるだろう。
かつての渡辺謙主演「沈まぬ太陽」のように、3時間を超え、休憩時間を設けること自体が話題を呼んだ、という既成事実がある。
本作でもその手法で観客動員は見込めるのではないか?
しかし、映画のプロとして、上映時間と、1日の上映回数といった興行面への配慮がもちろんあったのだろう。
庵野、樋口両監督はこの作品をあえて119分に仕上げた。
本作においてゴジラは紛れもなく、3:11の津波に象徴される「自然界から人間界への警告の象徴」として現れている。
未曾有の自然災害で失われた、ひとりひとりの命。肉体だけではなく、その人の背負ってきた人生という膨大な記憶の遺産、そして「あるはずだった」その人の将来や未来さえ、奪っていった。それを「数」という記号でしかカウントできない、悔しさ。命の「質量」手触りや「重み」
それを背負って、クリエイターたちは、今後、何をどう表現し続けていくのだろうか?
現実には、原発事故の後始末は、あと何十年かかるのか? 目処も立っていない。
残留放射能はどこにどれだけホットスポットがあるのか?
それも曖昧なままだ。
そんな現実が足元にありながら、僕らは今のところ、ごく平穏に日常生活を送っている。
「想定外」だから「シ・カ・タ・ガ・ナ・イ」
みんな、自分を納得させ、諦めているのだろうか?
そのうえ「原発事故は人災ではない」と黙認してしまうのか?
この世の中には、辛いことを忘れさせるための、楽しいことが山ほどある。
それらにより、幾重にも巧みにヴェールで隠された、日常生活の現実はホラー映画以上の恐ろしさだ。
そういう「公然の秘密」という地下水脈が走る日本列島で、僕たちは新しいゴジラ映画を体験するのである。

ユキト@アマミヤ