屍者の帝国のレビュー・感想・評価
全20件を表示
魂はどこに宿るのか
原作は未読、色々と小難しいそうな雰囲気はあるが、主人公の行動原理は親友のフライデーを生き返らせるという明快なものになっている。
だが、その肝心の主人公とフライデーとの関係性というか距離感がシーンの度に違うというか、最初は愛情なのかと思ったら、次のシーンでは友情?と思ったら愛情とぶれぶれで主人公はなぜこんなにフライデーに執着していたのか分かりにくかった。ここらへんの関係性は原作から改変されているようなので、どうせならもっと振り切った方が分かりやすかったのかもしれない。
全体としては中世的でスチームパンクな世界観、屍者が労働力として生活の一部となっている様子がしっかりと描かれいて引き込まれるし、屍者の動きは観てるだけで作画が大変だったのが伝わってくる程に拘りを感じた。
その一方で、人造人間等のオーバーテクノロジーすぎる技術もあり、ちぐはぐさを感じてしまった。正直、人を生き返らせるより人造人間に脳を移植させた方が早いのではないかと思ってしまう。
エンドロール後のストーリーについては、原作未読なためかすっかり置き去りにされてしまった。でも2人とも幸せそうだし、まあいっかと。
九州男児フェチの心を鷲掴み!佳作。
こっれはもっと評価されるべき!
伊藤計劃の全身全霊を賭した絶筆!
この鬼才が断末魔に垣間見たこも幻視を我々はどう解釈すべきなのか?
「時のオカリナ」を彷彿とさせるシーンにニヤリとしてしまった。
薄気味悪い
が、よく考えられた話しだった。
だか、俺には合わない。
プロットを元にって事は、ご本人の作品とは違うって事なのだろう。
だから、この作品を通して伊藤さんのカリスマ性とか垣間見る事は出来ないんだろうけど…まあ、色々と萌える要素満載だった。
屍
蒸気機関
絶世の美女
機械生命体
霧のロンドン
フランケンシュタイン
後、ノーチラスとかエジソンとか…。
なんとまあ、ふんだんに。
でも、話しというか展開がよく分からない。
よく分からない黒い結晶は吹き出すし、
パイプオルガンで解析しだすし…ここらへんも萌えるのか?
黄緑色のモヤモヤしたもんが溢れ出して生き返ったりするし…あれが魂とか、そんな短絡的なもんじゃないと思うけど、屍になった人が自我を取り戻すんだよなあ。
魂を吸い取って個別に戻せるとか都合良すぎなんじゃないのか?
なんかアサシンのオッさんが死んだような描写になってたけど、屍なんだから幾らでも再利用できんじゃないのか?
あんな演出にしなきゃいいのに…。
船の一室に車が放置されてるのもよく分からない…その前の隠し扉っぽいのも肩透かし感しか与えてくれなかった。
黒いウェディングドレス着てんのも意味が分からない。
発生した結晶は、生者の体に染み込むように溶けてくし…。
もうね、好きにすればって感じ。
勝手に陶酔しとけよ、と。
こんなもの映画館でやんじゃねえよ。
この話を1から書き起こした事には敬意を表するが、視聴者層を鑑みるとうすら寒い。
俺には全くもって、つまらない。
知識0でも楽しめた
話が分かりにくい分かりにくいと聞いていたので、どれだけ分かりにくいんだろう…と不安になりながら見てみましたが普通に面白かったです。
要約すると、M、カラマーゾフ、ザ・ワン、ワトソン、それぞれが願いを叶えようと奔走する話と言った感じでした。
M→争いばかり起こす生者を悲観し、手記を用いて生きる人全てを屍者にして、哀しみや怒りと言った争いに繋がる心を無くさせ、争いのない世界にしようとした。
カラマーゾフ→Mの企みを阻止するべく手記を破棄しようとした。また、手記には屍者に魂を取り戻させる方法が書かれてはいるが、それは非常に危険な行為のため、ワトソンを思いとどまらせようとニコライと自分の死を見せ付けて忠告した。もともと暗殺される身であったための自害でもある。
※話の流れ的に、魂を取り戻させる方法とは生きた人をそのまま屍者にすることではないでしょうか。(屍者というのは、病などで一度普通に死んでしまった人間を生き返らせるもの。生きている状態から屍者にすることはない。カラマーゾフがニコライを屍者化させたとき、ワトソンが殺人だ!と非難したのはそのため。)
だからニコライとカラマーゾフは生きたまま屍者になるところをワトソンに見せ付けたのでは…?
ザ・ワン→手記と自らの製造者の脳を使用して自分の愛した人を蘇生させようとした。
ザ・ワンは結局愛する人を蘇らせたかったという為だけに、ワトソンやMを利用した。
ワトソンをMの場所に呼んだのは、自分が今後使う肉体(フライデー)と愛する花嫁の器(ハダリー)が欲しかったから。
Mを利用したのは、Mの所持していたザ・ワンの製造者の脳を使うため。手記だけでは※に書いた方法で魂を呼び戻すことはできず、製造者の脳が必要だったためわざとMに捕まった。
ワトソン→手記を手に入れて友人フライデーの心を取り戻し、フライデーが生きていた頃のように過ごしたかった。
ワトソンが最後自ら屍者化したのは、もう二度とあのような大量殺戮が行われないように、自らの脳に手記を封印するため。
また、フライデーなどの屍者を、魂の持った屍者にするためでもあると思います。
屍者に魂を持たせるには、「手記」と「ザ・ワン製造者の脳」が必要だった。ワトソンはその製造者の脳の役目を自らの脳で代用し、フライデーの魂を取り戻させたのだと思います。
大量殺戮を行わずともフライデー達に魂を取り戻させることができたのは、ワトソンの脳がザ・ワンの製造者を越えていたからできたのではないでしょうか。
エンドロール後の話については、おそらくワトソンもフライデーも、ワトソンのなかに手記を取り入れることで魂(感情)を取り戻すことはできたけれど、生前の記憶は無くなってしまった、ということだと思います。
それぞれ生前の記憶は無くし、屍者として新たな人生を歩みはじめた。ワトソンはフライデーを生き返らせようと足掻く悲しい医学生ではなく、シャーロック・ホームズと共に駆け巡るような、自由奔放な人生を…という具合に。
完全に忘れてしまうのは悲しいので、二人共少しでも覚えててくれたらなあ…と思います…泣
まあワトソンの願いはもう一度フライデーと話すことだったので、その願いは叶えられているのかも知れませんが。
全体的には悲しいけれど、大切な人を生き返らせようと必死になるワトソンの姿はとても感動的でした。
強いて言うなら、登場するキャラ全員がとても魅力的でしたので、それぞれのキャラの過去などももっと見たかったです。特にザ・ワンは、なぜ大量殺戮を犯してでも花嫁を取り戻したかったのか、ザ・ワンと花嫁の関係性がすごく気になりました。
あとこの時代にこんな技術はあり得ないとか言っている方もいるようですが、この物語をやる上でそんなリアリティ必要ありますかね?
そんなこと言い出したらファンタジー全般を否定することになると思います。
そんなことより、終盤で突然ワトソンとハダリーの距離が縮まったことの方が気になりました!
ワトソンがフライデーに執着するのは再三言われてたので分かりますが、ハダリーはまだ出会って間もないじゃないですか!笑
そこだけ気になるので★-1です。笑
圧倒的映像美。だけど肉体が復活することは幸福なことか疑問?
作品レビュー
★★★☆☆
日本SF界のポープであったものの2009年に肺癌で夭逝した伊藤計劃の絶筆として河出文庫の『NOVA1』に収録されていた未完の原稿約30枚が、そもそもの原作のもと。それを遺族から承諾を得て友人の円城塔が原稿を引き継ぎ、2012年8月に『屍者の帝国』として刊行したのが本作の原作となりました。
舞台は19世紀末、ヴィクター・フランケンシュタインによって屍体の蘇生技術が確立され、屍者が世界の産業・文明を支える時代が到来していたイギリス。なんと屍者が産業革命で枯渇していた労働力を補填していたのです。
そして主人公のロンドン大学の医学生ワトソンは、異常なまでに死者の蘇りに執着して屍者技術の開発に没頭していたのでした。
その理由は、屍者技術を共同研究していた親友フライデーの死。その親友の肉体を使って、自らの手で記録専用屍者として違法に復活させたものの、感情や思考は失ったまま。ワトソンは、完璧な屍者技術を完成させて、フライデーを元の親友の生前の頃に戻すことの一念で、研究に没頭していたのでした。
ワトソンの違法行為を知ることになった、政府の諜報機関「ウォルシンガム機関」の指揮官「M」は、ワトソンと密会。その技術を見込まれて、機関の一員に迎えられ、アフガニスタンでの諜報活動を依頼されます。その目的は、屍兵部隊と共にロシア軍を脱走してアフガン北方に「屍者の王国」を築いた男カラマーゾフの動向調査でした。
ワトソンはフライデーを連れて、機関に所属するバーナビー大尉と、ロシアから派遣された諜報員クラソートキンと共にアフガン奥地の「屍者の王国」を目指します。
辿り着いた「屍者の王国」で彼らを待っていたカラマーゾフは、かつてフランケンシュタインの創造した最初の屍者ザ・ワンが生存し、人造生命創造の秘密の記された「ヴィクターの手記」を所持していると告げ、ザ・ワンの追跡を依頼します。そして
ザ・ワンは生者のように話ができると知ったワトソンは、フライデーにも適用できるのかと色めき立つのでした。
以降ストーリーは、ワンの消息と「ヴィクターの手記」がキーアイテムとなって、屍者を暴走させるテロ集団「スペクター」や「ウォルシンガム機関」の下部組織「ルナ協会」の部隊などが入り交じり、手記の争奪戦が繰り広げられます。
その中でワンと遭遇したワトソンたちは、ワンから屍者化の推進は人類の破滅に繋がると警告を受けます。ワンの提案を受け入れたワトソンたちは、ワンとともに屍者解析機関があるロンドン塔に乗り込み屍者化の阻止に乗り出します。
しかしザ・ワンによって「屍者の言葉」を理解した解析機関は実体化し、全生命の屍者化を始めるのです。果たしてワトソンは人類の危機を止められるか。そしてフライデーを約束したとおり、元の人間として復活できるかというお話しです。
屍者が蘇生して文明が栄える世界いう、実際の歴史と異なった背景描写。その違和感を和らげるのが19世紀の街並みの緻密な町並みの描写とともに、当時開発が始まったばかりの機械式計算機の精密な描写。それが当時の科学水準でも、屍者が蘇生しそうな雰囲気を醸し出しています。そしてなにより淡雪の舞い降る町並みの情景や、魂と思われる光の乱舞する光景が、どのアニメ作品よりも美しいのです。さすがは『進撃の巨人』シリーズなどを手掛けたWIT STUDIOならではの画質の高さが印象的でした。
しかし霊的科学を標榜しているように見えて、本作の実態はかなり唯物論的です。霊的な存在や輪廻転生には全く触れようとせず、人間の意識=霊的実在も物質的な実体として暴こうとします。本作ではフライデーが生前に、魂とは「重さ21グラムの霊素」出てきているのだとワトソンに語ったシーンが何度も回顧されます。それが原作者伊藤計劃のSF観かもしれません。
ワトソンは、エジソンも引き合いに出しましたが、エジソンは屍者が蘇生でなく、霊界ラジオの研究を通じて、屍者の世界とのコンタクトと魂の生まれ変わりのシステムについて科学しようとしたのです。
宗教の立場から本作をみれば、親友の肉体の復活に汲々とするワトソンの科学万能主義に疑問を感じてしまいます。本当に親友を復活させたいのなら、屍者技術よりも、信仰による蘇生の科学的解剖に向かうべきでした。
その例としてあげるなら、イエスさまが、死せるラザロよ生きよと一喝しただけで、ラザロは蘇生した事例があるのです。ラザロは死んで埋葬されたのにもかかわらず、元のように蘇生したのでした。その聖書の記録を信じるなら、親友の復活の可能性を信じて、主なる神に、全身全霊で祈りを捧げるべきではなかったかと思います。
さて、物語が終わった本編エンドロール後に、本作は意外な展開をみせます。ロンドンを舞台にしたワトソンという存在は別な物語の相棒として、有名です。では、その別な物語の主人公となる存在の正体とは誰か?という問いかけが、本作のある登場人物に暗示されていてビックリしました。
原作を大幅に省略しているため、いささかストーリーが飛び飛び気味です。原作を読みこなしてからの方が、伊藤ワールドに深く感情移入できることでしょう。
わからん!
予備知識無し(原作も知らない)で観賞。
結論 意味不明!(言ってもしょうがないが。)
原作ファン向けの映画なのでしょうが、
話がだらだら長い、日本とアメリカのくだりは、いらないでしょう。
Mは、何がしたかったんだ。
ザ・ワンは、人類の魂使って花嫁復活?
ヴィクターの手記っていうのは、生者に屍者を復活させる技術をいれるんでしょ?意味なくないですか?
ハダリーの人間くさい機械人形の方が、よほど凄いんですけど!
最後にワトソンが自分に人体実験するけど
結果どうなった?
エンドロールで、シャーロックホームズって役名があって「いつ出てきた?」と考えていたらエンドロール後に出てきて!!
「何、シャーロックホームズに繋がるの!」
「フライデー復活してんの?なんで?」
とにかく原作未読者には、突っ込みどころ満載です。映像は、綺麗ですけどね。
今、再び書を開く。(なんつって)
いくつか原作とは相違点があります。
映像化においては仕方がないとは思いますが、
原作にある個人的に好きなシーンがカットされていたことはちょっと悲しかったです。
原作第一部Ⅱ節にある女性クリーチャとの遭遇の場面。
お城の地下施設で十字架に張り付けられた鉤爪の女性の屍者と邂逅し、ワトソンが驚愕した瞬間です。
映画化の際はぜひ再現してほしかったのですが、時間の関係上描き切ることはできなかったようですね。
そもそも原作では優秀な一医大生のワトソン君が
「親友を蘇らせた狂気の技術者」
という設定に変わってるのだから仕方がないとは思いましたが……。
しかもフライデーは親友じゃなくて任務遂行のため支給された備品なんですけどね(笑)
そこは映像化においての味付けなんでしょう。
オリジナルとはまた違った魅力を感じます。
原作が難解なため、アニメで簡略化や味付けをすることによって見やすさ(親しみやすさ)を出しているのはありがたいです。
「カラマーゾフの兄弟」も途中で挟んで読んでいたので、
脳内で映像化するのが非常に難しかった作品でした。
(故・伊藤計劃氏が書いた第一部のラストまでは一気読みするほどのめり込みましたが)
映画鑑賞後の今再度本のページをパラパラとめくると、
「ああ、このシーンはこういう意味だったんだ」
と頭の中で整理できるようになりました。
もう一度原作を通読したくなります。
今度は頭の中でシーンを再現しながら読め、映画との相違点を味わえる気がします。
原作を理解した上でファンの方にとっては「違う」というイメージが強いかもしれませんが、
「原作難しいなー」と思う方には補完としてちょうどいいと思います。
声優さんも豪華ですしね。
(山下大輝さんがニコライだったのは嬉しい発見でした)
あ、でもバーナビーはイメージ崩れてなかったですよ。
原作と大差ありません(笑)
余談ですが、同日観た「心が叫びたがってるんだ」で
ワトソン君役の声優さんがガタイのいい野球少年(それも準主役)を演じていることに全然気づきませんでした。
声優さんってすごいなって思います。
_φ(・_・魂のありかは、、、、
下手な邦画、洋画を観るより俄然引き込まれました。アニメはいい!
21グラムの魂は死んだらどこへ?ゾンビとなった人間に魂を埋め込むには?MにしろONEにしろ主人公にしろ欲がある限り
魂のありかはわからないって事なのかな?フライデーは最後に魂を取り戻せたのか?疑問が多く残り、解説書があったら読みたいぐらいですが、、、、。思ったのがなんらかの記憶を死者には植え付ける必要があり、そこに魂とかその人物のコアなものが組み重なって人格ができるのではと、、、、。記憶がない限りゾンビが人間になる事はなく、ましてや魂の所在など全くわからず人間が甦る事などあり得ないんでしょうかね、、、、?日本人はこの魂の所在について独特な考えがあるんだなと思います。鋼の錬金術師 、攻殻機動隊、しかり。
魂の存在を考えました。
屍者がたくさん歩いてる世界は、ちょっと気持ち悪かった。主人公の旅が進むにつれて、魂の存在、個人の定義を考えさせられました。私はある本で、知識や経験の積み重ねが『意識』を生み、やがて『個人』として定着するとの理論を知りました。フライデーはそれまでの経験と今回の旅から学び、新たな意識、新たな個人がフライデーの中に生まれました。新しいフライデーをワトソンに会わせてあげたかった。そんな気持ちになりました。
さてさて、観てきました『死者の帝国』
熱狂的な支持を得る作品!
評判通り、殆ど満席でした。
作品自体は原作を知ってれば、より楽しめる内容でした、懸念してた映像化も音楽・絵・声優、共にとても良く世界観を壊してないので入り込むことが出来ました。
フライデーが作中で鍵を握っているだけあって描き方がよく、アフターでは映えていました。
作品の意図とはズレるかもしれませんが考えさせられるないようでした。特に人としての愛憎や存在証明など
後は行き先…かな
少し残念でした
私は原作の内容がとても好きだったので、映画を見終わって色々と残念な気持ちになりました。
内容的には原作の小説とは異なり、部分的に改変し2時間のアニメに仕上げた感じでしたが、原作がの内容が好きだった私は話の流れが変わってしまった所が残念だと思ったところです。
それ以外にもかなり変わってしまっている点が多くあったと思います。
内容的には残念に思うところは多かったですが、映像としての点はすごくきれいに出来ていて、そこは楽しむことが出来ました。
CGの部分はツイッターでも紹介していましたがきれいでした。
そういえば漫画版は映画の内容に近いようでしたね。
色々と書きましたが、内容としては私は残念に思うところが多かったです。オリジナルアニメとしてみたら映像もきれいだったので楽しめたのではないかと思います。
最後に原作のプロローグ部分のアニメが無かったのが一番残念に思いました。ですが映画の内容的には仕方の無いことだと思います。
他の2作にも期待して待ちたいと思います。
ワトソンとシャーロック
最初はちょっと面白い子って思ったけど、後半伸び悩みやしたね〜〜
そんなに面白くなかったです。
最後ワトソンはどうしたんでしょう?
1.大胆に且つ美しく改変
個人的に伊藤計劃の本が好きで「Project itoh」の3作は読んでいるのでそこをふまえてのレビューとする。
伊藤計劃が序文を書き、伊藤計劃亡き後に盟友である円城塔が引き継いで執筆したのが本作『屍者の帝国』。
原作の内容がボリュームがあり、中身も濃いので多少の改変は仕方がないがそれにしても小奇麗になりすぎていた感が否めない。現代のハリウッド映画のように整ってはいるが個性がなく単調でメッセージ性に欠ける作りのよう。
具体的にはワトソンとフライデーを友人設定にすることで2人の関係性を軸にストーリーを構成していくことで関係図も一気にコンパクトになり、映画として綺麗にまとめられたのは良かった。
Mという悪役を立て、さらにザ・ワンを花嫁を復活させるために何でもするマジキチ設定にするのもワトソンが自分の罪を贖罪するために倒すという映画の流れとして良かったがその後のワトソンが自分自身を実験体にするというシーンの説得力が薄くなった印象がした。悪を倒した爽快感が漂うシーンから一転してワトソンが魂の在処を自ら確かめるというのはシーンの流れとして唐突すぎて置いてきぼりを食らってしまった。原作の屍者化やXの正体も分からなかったので自分で確かめるという流れだと納得がいくがここが惜しかった。
映像のクオリティに関していえば流石wit。作画は綺麗だし、進撃のCGで培った技術は屍者のCGで確実に役立っている。動きがクソキモイw
マングローブも潰れ、虐殺器官が公開日変更になり、出だしから荒れる「Project itoh」だが、今後も目が離せない。
驚いた
僕の好きな原作から色々改変されてて。
確かに、あの内容を二時間でやろうとすると難しい。
だったら前後編に分けてほしい、とか思うけど、予算の問題などもあるのでしょう。
原作見なかった人なら、良かったとか面白かったとか思うのですかね。
映像が良かっただけに、原作ファンとしては、ちょっと残念でした。
伊藤計劃への追悼のための原作改編
アフガンでの一連のシーンやその音楽、解析機関のアニメーションは他の皆さんも書いているようにハイクオリティであります。
しかしながら、伊藤計劃の作品に胸をうたれ、彼の死を今でも忘れられないわたしは、この作品を良いとは思えませんでした。
あまりにも原作そのものへの信頼に欠けており、結果として感動できないストーリーとなっているからです。
本作は、原作のシナリオから大きく変更がなされています。円城が引き継いだ原作のラスト、「ありがとう」という非常に感傷的な(唐突さすらある、だからこそ計劃ファンにとって重要な)メッセージを元に全体が大きく歪められ、登場人物の存在、作品全体のメッセージも、映画独自のものへと改変されてしまったように思えます。
おそらく、追悼としての「ありがとう」であり、尺におさめるための努力であり、伊藤計劃や円城塔を未読の若い方々へのアピールであろうと思いますが、ただそのためだけに原作をここまで蹂躙してよいのでしょうか。
そして、伊藤計劃が自らの手で執筆したプロローグ部分を映像にしない理由になるのでしょうか。
彼への追悼とするのならば、原作テーマを過剰に変更することなく、彼が言いたいことをそのまま映画にするべきだと感じます。それだけで、充分面白い映画になります。そうでなければ、そもそも映画にする必要はないでしょう。
そして、改変後のストーリー自体ですが、テーマの一部をあろうことか別作品である"ハーモニー"から引用しており、屍者への未練を描くストーリーとはそぐわず、後半の混乱の一因となっています。特にラストは整理されておらず、あの流れであればワトソンかフライデーは魂を亡くすべきでしたが、潔さ/道理のないハッピーエンドで締めくくられます。あれだけ感情を込めた演技を劇中ずっと浴びていたのに、泣くこともほっとすることもない妙な幕切れでした。
でも、この映画で、若いキャラクターに魅力を感じた方々が伊藤計劃の作品を読むのならと思って我慢すべきでしょうか。
原作をお読みになっている方、山岳地帯のシーンの美しさは間違いありませんので、そちらをお楽しみください。
最後に、このようなテーマの改変という自己愛を織り込むのであれば、最初からオリジナルでやってください。こんな自己満足の感情を詰め込まなくとも、伊藤計劃のことは二本のあの素晴らしい長編さえあれば誰も忘れません。
原作とは別作品
伊藤計劃の虐殺器官、ハーモニー、屍者の帝国は読みました。
屍者の帝国自体はそんなに好きではありませんが、他の2作品も映画化されますので、せっかくなので全部観ようと思いました。
原作とは別作品です。
フライデーが主人公の友人の死体…というのは原作にはありません。
なのでフライデーに魂を宿らせようとする主人公の行動はすべて映画オリジナルです。
また、登場人物の性格も原作の印象とは随分違います。(特にバーナビー)
日本あたりまではいい感じのペースでしたが、そこから先は詰め込み過ぎというか…時間配分がいまいちだったなという印象。
原作のセリフがちょいちょい無理やりねじ込まれていますが、ストーリーが大幅に変わっているので違和感を覚えました。
他の2作品も同様に原作を無視した展開になったら嫌だなぁ…。
ゾンビブーム?
伊藤計劃、知りません(陳謝) 純粋にノイタミナ保証で観覧した。
所謂ゾンビ関連が溢れている昨今ではあるが、これもその一つ。
その中に於いて、生命や意思、言葉、気持ちなどを質量に表すと21gになるそんな科学活劇アニメ、所謂SFである。
やはりゾンビをうまく演出していくにはアニメが一番しっくりくるのはそれが現実的では無いという至極尤もなことを押さえて、だからこそ、その荒唐無稽なパラレルワールドを楽しめるのもアニメの得意なところである。
『メトロポリス』という昔のSF実写映画にインスパイアされた、古いのか新しいのか混在しているメカニカルなギミックは、それ自体郷愁を誘うのはなぜだろう?! 動いてる原動力がスチームというのも産業革命の凄まじい技術革新を体現してるメタファーなのかもしれない。
一寸こそばゆいのが、やたらと器具を首の後ろ、脊髄辺りをブッスブッス差し込む、いやねじ込んでいるシーンが出てきて、これが気持ち悪いというかなんというか(苦笑)
『攻殻機動隊』原始バージョンって感じだけど、やはり直差しは痛さが伝わるというか(^^;)
演出も最後はパーッと花火が咲くような力ずくで押し切るような感じ。スペクタクルで華やかな最後の決闘シーンも、初めの我慢を続けての解放というのが狙いなのかもしれない。
色々な偉人や有名古典小説の名前が出てきて、それが微妙に関係してあるところもその背景を知ってる人が観ればもっと面白さもあるのかもしれないが、学がない者で・・・
その少々の難解さも魅力と感じたストーリーであった。
雰囲気は良かった
原作は知らない。全体的な話の流れは悪くない。日本編まではとても良かったがクライマックス辺りは無駄に話を大きくし過ぎ。
キャストについてはハダリー以外はすごく良かった。ハダリーだけは最後まで違和感が抜けず。キャラデザと声が合ってないのと機械にしてはセリフに表情がありすぎかな。
そもそもこの話にハダリーが不要。あんた魂持ってるよと言いたくなるぐらい自然に会話し、状況判断できる頭脳があるなら、何も使い勝手の悪そうな屍者なんて使わずにハダリー量産するでしょう。
すごく良いところ沢山あるのにどうも余計なものを盛り込みすぎた。
決して改悪などではない
屍者の帝国。素晴らしい出来だったと思う。
設定に変更があり、それを「改悪だ」という方もいるようだが、「フライデーを蘇らせる」という強い目的を置くことによって物語の筋がはっきりしていた。
原作の本筋は変わっていないながら、わかりやすく多少は優しくなっていたと思う。
「改悪」ではないが、決して「改善」ではない。
小説は文字ならではの表現があり、映像と音声では物足りないところもあった。さらに「2時間」という短い時間に収めなければならないため、展開が急だと感じることもあった。
しかし。それを補うだけの映像での表現のクオリティは凄まじかった。
原作を読みながら脳内で描いていた想像より遥かに壮大で、正直アニメ映画のクオリティか?と疑いたくなるくらいだった。
そしてなにより、キャスト陣である。
とにかく「フライデー」役の村瀬歩さんの叫びには鳥肌がたった。回想で出ていた生前のフライデーの落ち着いた雰囲気からは想像できないような叫び声。
また、エンドロール後の語りも非常によかった。他にも語りたいキャスト陣はいるが、長くなるので割愛する。
とにかく言いたいことはただ一つ。
みんな見てくれ!
原作ファンなら後悔はないと思うが、設定変更に不満がある方もいるだろう...
劇場版はわかりやすくなっているものの、「アニメ映画」としてみると少々難しいかもしれない。ただ、内容があまり理解できずとも面白さを感じた方がいるようなので、そういう方は是非、原作を購入していただきたい。
屍者の帝国がこの世に生まれ出てくれくれたこと。
伊藤計劃先生
円城塔先生
劇場版のスタッフとキャストの皆様
本当にありがとうございました。
伊藤計劃として観るのではなく、「Project-Itoh」として観るべき
私は伊藤計劃さんの「虐殺器官」、「ハーモニー」、「The Indifference Engine」「伊藤計劃思想1・2」を読み、また円城塔さんの「道化師の蝶」、「これはペンです。」を読んでいる。それを踏まえた上での感想だ。
円城塔さんが原作中のあとがきで「僕は伊藤計劃さんではないし、伊藤計劃さんならこうするだろう、という事は全く考えずに続きを書いた。それに、伊藤さんを引き継いで書いた訳でもない」と書いている。
「The Indifference Engine」からも分かるとおり、「屍者の帝国」の序盤の30ページは伊藤計劃だ。そして、序盤後は円城塔によって伊藤計劃らしさは全くない、別物を書き上げた。
だから、この作品は円城塔による「Project Itoh」と評価したい。
映画を観て、「なんだ、伊藤計劃ってこんな感じか」という感想を持つのは早計であり、円城塔としての評価を得るべき作品だ。
なので、伊藤計劃というフィルターを通してみた映画「屍者の帝国」は全くの駄作である。前述した評価としてならば納得の作品だと思う。
全20件を表示