神々のたそがれのレビュー・感想・評価
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分かり易くてメッセージもシンプル。ただし、事前に予習しておくこと
「神々のたそがれ」 分かり易くてメッセージもシンプルな映画だった。
モノクロの3時間ほどの長尺もののロシア映画なので体調整えないと寝てしまう恐れがあり、XX打破を飲んで臨んだ。(普通はやらないが)事前に粗筋を頭に入れておくとカメラワークや映画そのものを楽しめる。
パンフレットが、多少のタイポはあるもののよく出来ていて、後ろの方にある粗筋が原作と対比しつつ細かく書かれている。掟破りかもしれないがこれを読んでから見た方が、楽しめる映画だ。ただし映像はどぎついので注意が必要。
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ここにも書かれているが、話しはSFで地球より800年ほど進化が遅れている別の惑星の王国の首都アルカナルに派遣された何人かの観察者の一人、ルマータの物語。彼の地での彼の身分はドン(貴族)で、何故かクリプトン星から来たカル・エル(スーパーマン)のように強い。
(ここからはネタばらしになったらご容赦だが、あくまで個人の感想)
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恐らく地球の科学力の象徴のように暗示的に登場する手甲のお蔭かもしれないが観察者達は彼の地では並はずれて強いことがすぐが分かる。観察者達は、日本の甲冑のような格好したのもいたりするが(原作では主人公の幼馴染という設定らしい)なかなか分かり難い。
画面は、同じく主人公が額につけている飾りがまるでカメラででもあるかのようなクローズアップが多用されている。SF的設定はそのぐらいかな。
物語は王国にいる輩[やから]の権力闘争や陰謀、そこに“灰色隊”や“神聖軍団”といった「力」が絡んでクーデターが起こる。王・皇太子、迫害される知識人、貴族と奴隷などが当たり前のように出てくる。
これにぐっちゃぐっちゃの気候と土地、手鼻が当たり前の人々といった映像が全編通して出てくるのだから、確かに観るのに体力が必要だ。
映画のメッセージは単純かも知れないが映画的言語の断片もいろいろ見つけられると思うし、こういうのに興味がある人は(2回観るか事前にパンフの粗筋を頭に入れておいた上で)観てておくべき映画の一本だと思う。
わかりやすい寓話であるが、観客にはツラすぎる
ロードショウのときは、ゲルマン監督の作品は1本も観たことがない上に、原作はアンドレイ・タルコフスキーが映画化した『ストーカー』と同じくストルガツキー兄弟だし、その上、モノクロ3時間という代物。
よっぽどの覚悟を決めなければ・・・と、二の脚を踏み、今回特集上映で鑑賞。
ストーリーはよく判らない。
設定はナレーションで説明されるが、惑星の住人たちとの攻防など、誰がだれで、どういう立場なのか、あまり説明がないまま進んでいくから。
ロードショウ時に観た友人曰く、
「ストルガツキーの原作は1960年代に発行されて、ロシアではベストセラー。ほとんどのひとがストーリーは粗方知っている」
はずなので、
「あまりストーリーの説明には重きを置かない演出をしている」
らしい。
という前知識だけはあったので、ストーリーが判らなくてもいいか、って気持ちで観ていました。
じゃあ、どこに力を置いているんだ、というと、とりもなおさず画面づくり。
中世ルネッサンスを思わせる石造りや土壁の住まい。
三方を沼に囲まれ、突然降る粘つくような豪雨と長く続く霧の相乗効果で、道という道は泥まみれ。
甲冑をまとった「神扱いされている」ドン・ルマータはまだしも、それ以外の登場人物は、これでもかというほど汚れに汚れている。
その上、泥や汚物を顔に塗りたくる風習など、生理的に受け付けないような行動をとるひとびと。
それを長廻しのカメラで撮っていくのだから、うーむ、臭いまで感じそうで辟易する。
しかし、30分ぐらいすると、その風景にも慣れてきて、なんだかストーリーもおぼろげながら判ってくる。
知識人たちを次々と処刑していた上層階級がいて、その周りに兵士がいる。
かつて、その上層階級から追われた僧たちが僧兵となって、都へ舞い戻ってくる。
そして反乱を企てていた農民たちの集団は、都を離れて逃げていたが、あるとき都へやってくる・・・
と、たぶん、人間の歴史を短い時間のなかで再現しているようである。
神扱いされているドン・ルマータは、そういう上層階級や僧たちや農民たちに傍若無人に振る舞うが、決して手を出したりはしない。
なるほど、そういうことね。
原作のタイトルは『神様はつらい』。
なにもしない、なにもできない神にとっては、人間が繰り返す行為そのものが耐え難い、ということなのだ。
終盤、ドン・ルマータは、文字どおり「神は、つらい」と言うが、「神は、無力だ」とも言う。
地球と異なる惑星でも、人間の行うことは「蛮行」にほかならない。
それを、「単に観ているだけ」なのは、つらいはず。
それをゲルマンは画面でみせる。
画面づくりだけではなく、カメラワークも使って、である。
長廻しのカメラで撮っていく中で、登場人物の多く(その場面のハナシを進めていく役の登場人物ではなく、傍の登場人物だが)は、カメラを意識して、カメラの前を通り過ぎたり、カメラを覗きこんだりする。
それは、席に座ってみている観客に向って視線を送っているのである。
つまり、ドン・ルマータだけではなく、観客も観ているだけなのはでツライだろう、よく目を見開いて観ろ、というのがゲルマンの意図だろう。
クライマックス、掟を破ってドン・ルマータは都の住人を殲滅しようとする。
そして、ほとんどの住人は死に絶える。
しかし、都を離れていたひとびとが戻ってくる・・・
突然降る粘つくような豪雨の季節は秋だった。
一転して雪景色・・・
になるが、生き残ったドン・ルマータは数少ない人々と一緒にいて、映画の冒頭と同じ行為を繰り返す。
人々の対応も同じままに。
まとめてみると判り易い寓話であるが、それにしても・・・ゲルマン、凄すぎ!
怒りの矛先
地球より800年遅れた星が舞台。
その星にやってきた調査団の視点で、映画は語られている。
星の人々は、ある人は珍しそうにカメラを覗き、ある人はジャマだなとカメラに向かって呟き、動物達は勝手にカメラを横切る。
観察者が撮っている記録映像といった趣。
そんな映画を見ている観客もまた、観察者の一人なのであろう。
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他の方も書いていらしたが、ソ連らしい映画と思った(絵とは別の意義でも)。
その星では、帝政→革命→社会主義→崩壊と形態をかえてきた20世紀のソ連さながらに、力を持っているものが入れ替わる。皆、前の時代より良くなったと言うけれど、どの時代も醜悪。
為政者が栄えて滅びるを繰り返すあたりは、「大国の興亡」も彷彿とさせ、何もソ連にかぎったことではなく、地球の歴史を早回し、かつ露悪的に描いてみせたのかな、とも思う。
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主人公は、長年その星に滞在する調査団の一人。観察が役割なので、その星の人々が愚かしかろうと何だろうと、基本、傍観して、たそがれているだけ。
が、主人公がその星の女を愛し、女が抗争に巻き込まれて死んでしまったことで、様相は一変する。
何だコノヤローの、ちゃぶ台返し。傍観者の立場から一転、星の為政者を上回る、血を血で洗う大粛正。
主人公の怒りは、為政者やそれに諾々と従う愚かな民に対するものかと、最初思った。
でも、実のところ、怒りは、自分の同僚…観察者の一団、どんな光景を見ても「これが歴史だよ」とうそぶく連中に対して、一番強いように思った。
長年その星に居て、その星の歴史を作っている一員でもあるのに、他人事で自分が汚れないように、傍観者の立場を貫く者への怒り。
オレは観察者ではない。当事者だったんだ。そのことに気付いた怒り。
観察者ではない当事者だから、その星を愛せるのだ。
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最初に、この映画の観客も、観察者だと書いた。
糞まみれの星をみて、「これが歴史のカリカチュア」なんて書くような、したり顔の観客に対しても、同時に怒っているように思った。わかったような顔をしているお前らも、ほんとは当事者なんだからなと。
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追記1:
この映画と全くテイストは異なるが、アンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』と同じ感じを受けた。どちらも激動の20世紀を凝縮した話であり、それを傍観者ではなく当事者として撮った映画だと思う。
追記2:
散々、真面目に書いておいて何だが、糞まみれの星の様子が面白すぎて、諸星大二郎と漫☆画太郎のマンガの実写版のような映画だったなあとも思う。
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