グッド・ストライプス : インタビュー
菊池亜希子が求める“深化” そして手にした結婚についての教訓
婚活が社会現象ですらあり、SNSには頻繁に結婚や出産の「報告」が投稿され3ケタ近い「いいね!」や祝福コメントがあふれている。かと思えば結婚、婚活、妊娠、子育てに関するニュースはとかく炎上しがちで、ナイーブなテーマであったりもする。そんな“取扱い注意”の現代の結婚・妊娠という素材に真正面から向き合った勇敢な映画が、「グッド・ストライプス」だ。(取材・文・写真/黒豆直樹)
長く付き合いながらも、微妙に“文化圏”の異なるイマドキのアラサー男女が、妊娠をきっかけに結婚を決め、改めて少しずつ互いを知っていくさまを描く。「勇敢」とは書いたが、決して勇ましい映画ではない。雑誌に載るようなオシャレなカップルを描いているわけではなく、ダメな女子の奇跡の逆転劇でもないが、彼らと同世代の女子(そして男性)の共感や違和感を、リアリティをもって丁寧に紡いでいく。主人公の緑を演じた菊池亜希子もまた自身と重ね合わせつつ、緑と真生(中島歩)の姿に「好感が持てた」と語る。
「結婚や妊娠に関して、いろんな話を聞き過ぎていて、自分で動けなくなっている部分もあるんですよね。『結婚願望はあるの?』と聞かれても、あるともないともなんともなので、決める必要もないのかなと。『その時になってしたかったらするんだと思います』としか言えなくて、やれやれと思うことがここ数年、30歳になる前後からありました。地元でも既に子どもを産んでいる友達も多いし、それは本能的に正しいのかもしれないけど、一方で『産まなきゃ!』と強迫観念に押し潰されそうになっている子もいたりして。そんな時代に“できちゃった”からスタートラインに立ち、向き合っていく緑と真生ってラッキーで、神様にいいきっかけをもらったんじゃないかって思いました。すごくポジティブな話でもあるし、私の世代には現実的過ぎてアワアワする人もいるかもしれないし、『私は違うな』と距離を置く人もいるかもしれない。反応が面白い映画だなという気がしています」。
“グッド・ストライプス”とは、「素晴らしき平行線」。互いの価値観を無理に交わらせるのではなく、共に歩んでいくことを意味している。「あきらめる」「相手に期待しない」という言葉はネガティブに響くが、違いを受け入れるというのは、紛れもなくある種のあきらめなのだ。“できちゃった結婚”を描きつつ、“母としての自覚”や“夫の務め”などという説教臭い言葉が出てくることがないところも、本作の持つ意外なリアリティといえる。
「軽くチューニングして何となく方角だけ合わせた感じですが、それくらいがちょうど良い。『私はこうやって生きてきた』というものを互いに持っていて、それをすり合わせて1本にしようというのは無理だと思うんです。どこまで許して受け入れられるかに尽きると思います。『この人はこういう人なんだ。自分の隣にいるのはこの人なんだ、案外こんなもんだな』くらいの意識で(笑)。だから真生のお父さんと会った帰りに、2人が手をつなぐでもなく、小突き合いながら笑って寒い道を一緒に帰るシーンはすごくいいなって思います。音楽の趣味の違いなんて、意外とどうでもいいのかもなと」。
映画では、真生との関係性だけでなく、夢を挫折した苦さや家族への複雑な思いなどを抱えた、ひとりのアラサー女性としての緑の姿も描かれる。モデル、女優として活躍しつつ、自ら責任編集という立場でムック「マッシュ」を刊行し、絶大な支持を集めるなど“ダサさ”とは無縁の世界に生きてきたかのように見える菊池だが、緑のこうした側面に関しても強い共感を覚えたという。
「監督にお会いした時も『菊池さんにはこういう側面はないでしょうけど』と言われてビックリしたんですよね。私の中にはかなり“緑”の部分があります。格好つけちゃったけど、格好つけきれずにダサいところとか、人間関係でスマートになれなかったり、ここでサラッと別れればいいものを『でもさあ…』と引き留めて何か言おうとして、でも何も言えなかったり(苦笑)。友達の裕子(臼田あさ美)とのケンカのシーンを演じながら『イタいな』と感じたのは、身に覚えがあるからだし、誰しもそういうところは持っていて、東京でいくらオシャレな服着てサラリと生きているように見えても、見えないところで絶対にダサいことしているはずですよ。実家での振る舞いもそう。東京での人間関係と田舎での振る舞いって別物だけど、(真生が田舎に挨拶に来て)両方いる時にどう振る舞っていいか分かんなくて、カッコつけたくてもこの家が既にダサイし(笑)、東京で働いていても家に帰ると私は子どもだしって板挟みになる気持ちも地方出身者はすごく分かると思います。でも自分の相手が家族に会うって実はすごく大事で、その人がこの家でどんな風に育ったかが見えてきた瞬間に、会話するよりも深く、その人が理解できたりするものなのかなと感じました」。
イメージと言えば、以前から菊池は“森ガール”“文系女子の代表”などとカテゴライズされることが多く、女優としても“自然体”“等身大”といった言葉が付いて回った。ここ数年で「『マッシュ』を通じて自分から発信することが増えて、自分の世界観はより狭く、濃いものになっている」とも。
「見てくださる人にとって、菊池亜希子のイメージは、よりくっきりしたものになってきているのかなと思います。それは良くも悪くも“自分なりのビジョンを大事にしている人”というもので、それは大事なんですが、格好つけるつもりはなくて、素直に自分を出していきたいと思っています。取り繕うのではなく、その瞬間の“生”を表現したいし、完ぺきなオシャレじゃなく、何よりいま、自分が夢中になれるもの――それは、後から振り返ると恥ずかしいかもしれないけど、とにかくやるというスタンスを大事にしたい」。
狭く、濃く――広がりや多様性、新しさではなく“深化”を求める。それもまた、この年齢になってこその独特の価値観と言えるかもしれない。
「すごく基本的なことですが、お芝居って一人じゃできなくて、相手がいて、反応があって、それに返してという積み重ねだと思っています。この映画でも後半に進むにつれて緑の表情が変わったと言っていただくことが多いんですが、特に意識したというより、真生と向き合う中で『この人をちゃんと見たい』と思う瞬間がどこかであったんですよね。少し長いスパンで見ても、ここ数年、1本の作品が次の仕事につながって…という状況が続いていて、それは純粋で理想的なつながりだなと感じています。一緒に仕事をした人が、少し年齢を重ねた時に『もう一度、この人と仕事をして別の表情を引き出したい』と思って下さるのはすごく嬉しいです。もちろん、常に新しい世界や出会いをという気持ちもありますが、ひとつ仕事をして思うのは、またこの人たちと会えるように頑張ろうということですね」。
最後にひとつ。緑という役を経験して、改めて手にした結婚についての教訓は?
「結婚は案外悪くないなって(笑)。『自分は何者かになれるんじゃないか?』という期待は緑と同じように私にもどこかにあって、そういう思いを抱きつつ、いつの頃からか結婚に対する夢みたいな思いはなくなって、どこかで『いいな』ではなく『悪くないな』と思えるようになってきているのかな(笑)。もちろん『何者かになれる』という思いと結婚は共存・両立できると思います。ただ『何者かになることだけが全てじゃない』と思えた人の方が、実は魅力的なのかもしれないという気もしています。女性として気合いを入れて踏ん張りつつ、家に帰ると普通に母や妻でもあって……という人には、女性としての奥行きを感じるし、自分を固定している“つっかえ棒”を外して、突き抜けて柔らかくなった人の方がしなやかで強いんだろうと思います。そのつっかえ棒をいつ抜くのか、私はいま、現在進行形で考えている最中なのかな(笑)」