「サイコパスという成功者」ナイトクローラー SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
サイコパスという成功者
これ見て思い出したのは、「サイコパス」の中には優れた経営者もいる、という話。他人に対する共感能力は著しく低いが、他人の気持ちを読み、弱みを見抜き、人を操る才能があるという。
主人公は異常には違いないが、こういう人間は実際に「いそう」だし、またこういう人間が実際に社会で成功するんだろうな、というところが、現代社会の歪みが凝縮されたような映画だと思う。
大作のアクション映画とは全く違うテイストだが、アクションやスリラーの緊迫感はこちらの方がはるかに上で、ほとんど最初から最後まで気が抜けない。
このような話にありがちな、
主人公の行動が次第にエスカレートして、あるとき一線を越え、破滅の道を突き進む
というものとは「違って」いる。
主人公の行動はエスカレートしているのではなく、はじめから最後まで一貫しており、一線を越える行動をとるところでも迷い、葛藤、後悔は全くない。また、最後に主人公が破滅して終わることを様々な伏線で期待させておきながら、結局彼の未来に渡る成功を予感させるところで終わっている。
勧善懲悪にしないのは、現代を風刺する意図を明確にしたいからだろう。
様々な問題提起がある。
テレビのニュースというものは、結局視聴率狙いになっていて、また作り手の意図に沿った内容になっていること。
裕福な白人が貧困層や有色人種に残虐に襲われる事件を選んで報道していること。
ニュース番組やテレビ会社が倫理を厳格に守っているように装っている一方で、映像素材を撮っている方に汚れ仕事が押し付けられていること。
一般視聴者は、結局政治や経済の話よりも、ショッキングな犯罪の映像に興味を持つこと。
ベンチャー企業の社長がインターンと称して新人をタダ働きさせたり、それを精神論で正当化させている状況など。
こうした様々な歪みは、それぞれの立場や現場の人間が単に彼らの中でのベストを尽くそうとした結果に拠っているのであって、誰か特定の悪人がいるわけではない、ということも。
より根本的な問題提起として、この社会における「成功」とは、古典的な意味での良心や倫理感を捨てることなのではないか、ということ。
主人公のパートナーは、成功者としていそうな主人公の人間像と対比して、失敗者としていそうな人間像として、明確な対照になっている。
目先の利益しか考えられず、将来の目標や向上心がなく、自分の能力のアピールもできない。世渡りのための嘘が下手。言い訳ばかりで解決策を提示しないこと。犯罪に手を染めることには臆病だが、それは良心というよりは、単に自分が犯罪者になるリスクをとりたくないから。一旦主人公の弱みをにぎったら、態度を豹変させて強請ることもする。
大勢のパートナーのような凡庸な人間が、一部の主人公のような目標に向かって突き進む人間に支配されている、というのがこの社会なんではないか、と思わせる。
主人公の目的は、結局、社会的に成功する、ということに尽きるのであって、実は報道には何も理想を持っていない。そこに寒々としたものを感じる。
この社会を動かしている、いわゆる「できる」人間といわれる人達の正体がこのような人間ばかりだったとしたら…。