バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のレビュー・感想・評価
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いつまでも考えてしまう
カメラワークが命の作品。
主人公の超能力が本当のものなのか、あるいは妄想か、曖昧な演出だなあと思っていたら、ラスト、娘(エマ・ストーン)が空を見て笑顔になったということは、きっと彼は本物のバードマンなのだ、という解釈で良いでしょうか。
もっと深い意味があるとしても、ちょっと、もうどうでもいいかもしれない。もしかしたら、主人公が舞台で自殺してそのままフィナーレだと悲しすぎるから、ファンタジー世界に突入したということかもしれないし、それにしても、もう本当にどっちでもいい。
ああ、もしかしたら本当のバードマンとして生まれ変わり、もう隠さずに生きる道を見つけたのかもしれない、等と、どうでもいいと言いつつも、いつまでも考えてしまう、そんな作品でした。
ストーリー以外は良い
花にラベルを貼るだけで、美しさを視てない
米版 「カメラを止めるな」
っていうくらい、自分にはよくわからなかった。
「よくわからなかった」という人への解説コメントとか、いらないよ。よくわからなかった=つまらない^_^
ってことだと思うよ大抵は。
解説見ても、そうか!深いな!面白い!とはならないよ。
カメラ長回しとかどうでもよいし、
ドラムがなんだかよく鳴るし、
急にセクシャルだったり、
病んでたり、
長台詞だったり、
自分にはよくわからなかったです。
でもこういう映画が好きな人もいるんだろうな。
舞台とか、演劇とか、ブロードウェイとか、下北沢とか、ラーメンズとか、
なんかごめん、自分には全くわからない
なんかそういった、ね、異世界のもの?
楽しめる人もいるよね。
難解だけど無駄がない
エライもんを観た!
カルチャーショックに似たもの。
震えがきそうです。
と言いながらも、この映画は絶対メジャーに出るほどは売れないなとも思う。
まずカメラワークが独特(そこが超絶素晴らしい)
大筋は単純(そこから読み取るのが難しい)
妄想と現実の境目がないため混乱するかも(むしろそこにしびれる)
わかりやすいオチがついてない(考えさせてそこがいい)
上記のように、メジャーで受けないであろう理由が
逆にこの映画を傑作にさせてるポイントでもあるため、
この映画の評価はぱっきり別れるだろう。
音楽は全員高評価かも。
この映画では
落ちぶれた俳優の復活劇ってことに限定されておらず、
誰でも抱えてる寂しさやエゴとの折り合いってとこが重要。
セリフも必然、
自分でわかりきってるから聞きたくないような
耳の痛いことばかり。
そう、これ見るのしんどいのです。
そしてこのしんどさっていうのは
ある程度年をとってないと
実感を伴っての理解をするのは難しいと思う。
だからこの作品は凄いと思うしハマったけど、
周りにはなんとなく勧め難いものでもあります。
難しいなー!
未知のものに触れた時、人は毒と気付かない
技巧を凝らした映像や、トリッキーな演出、実力派揃いのキャスティングに見事に騙されたハリウッド。
アカデミー賞をはじめとして、素晴らしい評価を得た映画。それが、必ずしも傑作とは言えないという好例だといえる作品。
「くそつまんねえ」というのが正直な感想で、少なくとも、脚本が評価されたことには、まったく納得がいかない。
セリフの端々に、今日の映画界への皮肉や、演劇界への皮肉が散りばめられ、映像に至っては、「いつでも撮れるんですよ。大衆が悦ぶようなクソ映画なら。」とでも言わんばかりの、テクニックをぶら下げたような皮肉たっぷりの映像。
肝心の、お話がつまんなければ、映画はつまんないということだろう。
意味不明の、どうとでも取れるような解釈に、逃げるんじゃなく、ちゃんとまとめて欲しかった。
少なくとも、主人公に幻覚が見える理由なりとも、説明して欲しかったし、自殺未遂なのか、本懐を遂げたのか、見る人に委ねる演出は、卑怯極まりない。
私が、最も嫌いなタイプの映画だ。
それでも、星が2つなのは、役者の豪華さに敬意を表して。そして、We share a vaginaというセリフがどうしても気になって最後まで見てしまったことに敬意を表して。
2016.3.11
アーカイブの墓で眠れ
夢と現実の混淆と相即するように自意識が煮詰まっていくという構造から日本人の我々はまず『新世紀エヴァンゲリオン』を、あるいはウディ・アレンを、フェデリコ・フェリーニを、もう少しニッチな御仁ならチャーリー・カウフマンの『脳内ニューヨーク』を思い出す。あるいは時空をワンカットのうちに幾度も跨ぐテオ・アンゲロプロス。映画界の内幕モノという物語も同様だ。スタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』に始まりビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』。フランソワ・トリュフォー『アメリカの夜』、そしてロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』。映像作品の歴史は思いのほか長い。参照点を探そうと思えばこのようにいくらでもタイトルが出てくる。
同じようなものを作ることそれ自体は悪いことではないし、むしろ反省を踏まえた跳躍こそが映画史に新たな文脈を生成する可能性を持つ。しかし本作がそうした無数の類似アーカイブからどのように跳躍、つまり差異を生み出そうとしたのか、その痕跡がどうにも見当たらない。映像は長回しや時空の歪曲といったとっつきやすいセンセーショナリズムに終始するばかりだし、物語はどこまでも狭隘で自己中心的な作家的自意識の範疇を出ない。全編擬似ワンカット!とか言われてもアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』という本物の全編ワンカット映画があるしなあ。
現代の映画界、あるいは客層に対する皮肉としても微妙で、Twitterとかマーベル映画の市場支配とか演劇界との対比とか、現代的表象でラッピングされただけのよくある批判意識が節操なく繰り返されるばかりでいまいち面白味に欠ける。あるある〜わかる〜以上の感慨がない。というかきょうび誰もがネットやら学校やら会社やらでアイデンティティ・クライシスなるものに直面している時代だというのに、それをさもクリエイター固有の痛みであるかのようにやたら事細かく神経症的に描き出すというのはやはり少し安易なんじゃないかと思う。それに自意識を語る映画の中で自意識に関係するワードを直接出すのは流石によくない。マジで言わなくていい。たった一言の発話でも意味だけは正確に伝わるようなところをギリギリまで口を閉ざして迂回して、逆に相手のほうから歩み寄るのを待つ、そうすることで「理解」の範疇を超えた感動が生まれる。それが視覚芸術たる映画の魅力なんじゃないのか。
仮に、この何とも手ぬるい出来栄えそのものが、つまりはこの映画そのものが一つの巨大な皮肉なのだ、などと言い張るのなら、私はもうお手上げだ。私は映画を見に来たのであって、その外側に漂うコノテーションの靄を集めに来たのではない。映画として世に出す以上は映画の中で面白いことをしてほしかった。というかスクリーンというフレームの外側に主戦場を移した時点で映画としては負けだと思う。ただ、あのラストシーン、娘のエマ・ストーンが如何とも形容しがたい表情で窓外の上方を見上げるあのシーンだけはよかった。
とりあえずレイモンド・カーヴァーでも読むか〜。
一言「よくわからなかった」
人生なんて思い通りいかないもんで、ほとんど苦しいだけですよ(笑)
とにかく"風刺と皮肉がきいた台詞が満載な映画です。外国だと劇場内で大笑いするところでしょうが、日本は静かに鑑賞するのがマナーとすり込まれているので"クックッ"と咬み殺すだけ。
マイケル・キートンはかつて映画バットマンで名を馳せた売れっ子だったが、今では売れない舞台俳優。薬物更生施設から帰った娘エマ・ストーンが付き人だがBlog・TwitterやFacebookをやらない父親をバカにしており喧嘩ばかり。怪我した相手役に代って雇った男優エドワード・ノートンは、セリフ覚えがいいことを鼻にかけた、いけ好かない野郎なのに、娘にチョッカイを出す。妊娠したと言い寄る女優が居るかと思えば、喧嘩別れした妻ナオミ・ワッツはしばしば現れてはツネツネして行く。もう気にくわないことばかりで、荒れること荒れること。
人生なんて思い通りいかないもんで、ほとんど苦しいだけですよ。ただ"あの頃は良かった君"マイケル・キートンは、物は壊す、人はブン殴る、能動的落込み様はアメリカンですね。
舞台も観てないのに、勝手にこき下ろす女性記者が、映画俳優を蔑視した記事を書きなぐるエピソードなどありそうで面白い。
娘役エマ・ストーン のヘンテコリンな、異常に大きい瞳の吸引力はどーだ!
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
自虐的でなかなか
バードマンはパーマンのボス
マイケルキートンといえばバットマンだ。
バードといえばジャズの巨匠チャーリーパーカーだ。
冒頭、ジャズドラムのリズムに合わせレイモンドカーヴァーの一節が表れる。
映画の冒頭には「この映画はこういう映画ですよ。準備は出来てますか?」という意味が込められている場合が多い。
全編BGMは(ほぼ)ジャズドラムで、
1カットの長回し(風)に撮られている。
そして物語はかつての映画ヒーローが、自らの役者演技の原点に立ち返り
舞台役者として返り咲こうというストーリーだ。
舞台が映画と比べられた時の優位性としては、
ライブ感、即興性、リアリティなどがあるが、その要素を映画に持ち込もうとするときに
使われる手法が「1カット長回し」だ。
しかしこれは映画だ。
脚本、カメラアングル、照明、CG、エキストラ、すべて緻密に盛り込まれた1本の映画だ。
つまり、映画でライブやアドリブ、リアルを表現したいわけじゃない。
舞台と映画のいいところを巧みに織り上げた意欲作である。
そのおかげで役者と各スタッフのプロフェッショナル同士が作り上げた傑作に仕上がった。
ラスト。
「ついにリーガンはバードマンのマスクを自ら外し、新しい世界へ飛び立った。」
すばらしいブラックユーモアである。
マイケルキートン
「”かぶりもの”の役だと大ヒット」の法則。
結局成長できていないリーガン・トムソン
果たして最後、彼は映画俳優としてのプライドを鼻とともに捨て去ることができたのだろか。"予期せぬ奇跡"により幸か不幸か名声を得てしまい、より鼻が高くなったわけである。事実、新しい鼻はより大きくなっているようにも見える。そうした偶然に支えられた彼は真に成長しきれておらず、今後の舞台俳優としてのキャリアを暗示するようにも見える。皮肉にもこうした名声を得るという結果はバードマンの望んでいた結果にも見えるわけだが、そこに本人が気づいていないのも悲しい。バードマンを捨てきれていないようにも感じた。
映像・音楽に関しては素晴らしい。色彩が豊かでキラキラしたニューヨークがとても気に入った。音楽もbgmのドラムが心地よい。
理解できません
感性によりけり
謙虚な心を失くしてしまった役者に明日などない。
舞台俳優は映画俳優より優れた演技をする。そんな妄想に絡め取られてしまった哀れな俳優の末路は冬眠から覚める前に飢え死にしてしまう雄ぐまのようだ。すべてが偶然に生み出されてしまったことに気づいているのかいないのか・・・・ラストシーンは観る者の想像力に阿るのが正解だ。監督にだって分からないのだからだ。過去の栄光は決して人の心を縛り付けたりはしない。歳を重ねて振替る事柄は取り返しの衝かぬことばかりだからだ。もがいても幾戦の言い訳を思いついたとしても舞台の幕が下りてすべてを無いものとしてやり直すことなどできはしない。過ちは過ちなのだからだ。いま現在の行動が周囲の人々が避難したとしても心静かに受け止めて恥をかくことでしか表現しえないことを深く理解しなければ見るもの心を震わせることなどできゃしない。そんな至極当たり前の事に気がつかないというのはコンプレックスが氷河のように固まってしまい更に悪いことに腐った氷の上に優越意識を築いてしまったからだ。
この世にはあっても無くてもどうでもいいことが沢山存在している。その一つに演劇や映画がある。人々はこれらがなくても幸せに生きて行けたりもする。
だからこそ、謙虚さが必要なのだ。
ちょっと傲慢だと感じて今を生きている僕はこれを見てことのほか頷く回数が増えてしまった。
団塊の世代、必見の映画だろう。
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