「僕は至極当たり前の事を言っているつもりなのだが」セッション ISSIさんの映画レビュー(感想・評価)
僕は至極当たり前の事を言っているつもりなのだが
もしサッカー映画で、スパルタ顧問の先生が、天才プレーヤー(キーパー)を生む為にスパルタ指導で才能ある主人公を締め上げる。それに付いて行けず先生に暴力をふるい退学になる。主人公の告発で先生も退職させられる。でもその先生がW杯の監督になり、その大舞台でキーパーだった主人公をダマし出場を要請するが復讐の為、突然フォワードで使う。その為、負けそうになるが、突然、主人公が勝手にキーパーになり神憑り的ファインセーブで勝つ。観客は大盛り上がり、鬼監督もまんざらでもないって話だったらどうだろう?
何じゃその話?って思わない?
映画「セッション」を見た。
ホントに何が言いたいのかわからないヘンテコなストーリーだった。
たかだか3億円の製作費でアカデミー賞3部門を取り、評価も異常に高い。
こりゃあ見なきゃ!と意気込んで見たが、上記の話の音楽バージョンの映画である。
主演の鬼教官が自分の輝かしいキャリアを捨ててしまう様な、カーネギーホールの大舞台で主人公に突然、別の曲を与え復讐する。でも主人公の即興の酷い演奏は直接、指揮者である自分(鬼教官)の評価につながるはずである。つまり鬼教官の復讐行為は、自身が二度とJAZZの世界に戻る事は出来なくなると言う意味である。復讐のはずなのに、ただ常軌を逸した自分の評価を下げる(JAZZの世界から抹殺される)だけの理解できない事をする。
僕にはかなり違和感がある。
スポーツに比べ、音楽(奏者)は評価されない事を、この作品を通して訴えていたが、でも一番音楽を馬鹿にしているのは 作者に思えてならない。
僕の見方がおかしいのか?何か見落としているのか?
ネットでは絶賛で、そこに引っ掛かっている人がいないのも不思議である。僕は至極当たり前の事を言っているつもりなのだが、
子供の頃、友達と西部警察を見ていて、犯人が他人に殺人現場を見られてしまって、その目撃者を殺そうと狙う。西部警察も、その目撃者(証人)を守ろうとするが、最後には、犯人とお決まりの銃撃戦になる。なのに、この期に及んで犯人はまだ目撃者を、警察の銃弾を かわして殺そうとする。僕は「もう こうなったら目撃者とかの問題じゃないんじゃないの?」と言うと友達は「そんな屁理屈言わんと、純粋に楽しまれへんか?」とたしなめられた。
セッションを見て西部警察を思い出した。
でも、「ノーカントリー」の殺し屋は、目的を失った殺人依頼の執行が、異様な不気味さを醸し出していた。