「再び野火を見る。」野火 パッチワークすさんの映画レビュー(感想・評価)
再び野火を見る。
2度目の野火を観た。監督は舞台挨拶で各地を回っている。
生で見る塚本監督は静かな、それでいて「自分の映画はヘンテコリン」と言いながらも、その映画に身一つ体当たりして行くような、そんな人だった。私この監督、大好きです。
まあ、それは置いといて、以下は15年公開当初の感想の再掲だが、考え方はさほど変わらないのでレビューとします。
「ネタバレを含むーこう前置きする事がこの場合正しいのか。何より映画「野火」は、大岡昇平の同名小説の映画化である。それをやったからとて、この映画と小説の価値が下がるわけではない。そもそも、これはエンタテインメントではないのだから…。という逃げ口上。
ー大岡昇平の「野火」を最初に読んだのは、確か図書館であったと思う。三島由紀夫熱が一時的に下がり、その合間に様々な作家の本を読んだ記憶がある。結局、最後には元の位置に戻ったのだが…。
「野火」を最初に読んだ時、私が何を思ったのか、今もって思い出せない。随分ミーハーな私であったから、軍隊における人肉食というセンセーショナルな部分にばかり興味が湧いたのだろう。そんな私であるから、また塚本晋也監督が取り組んだ「野火」を見るまで、またその前にもう一度原作を読み直した時点までで、長い間その程度の知識しか持っていなかったということになる。甚だ浅はかな読書で、全く何のための読書だったのか。あの頃の自分を殴りたくなる。せめて読書ノートぐらいつけろ。
そうしたわけで映画を観るために、私はもう一度小説を引っ張り出して読んでから、準備を万端にして映画を観に行った。
物語はだいたい要約するとこのようになるだろう。
… 塚本晋也扮する田村一等兵は肺炎を患い、原隊と彼を受け入れない野戦病院とを行ったり来たりする。病院の外では、安田という男が淋しがり屋の青年を使ってタバコを売りながら兵士たちからなけなしの芋を巻き上げる。
そのなか野戦病院、そして田村の原隊は攻撃を受け全滅する。どぎつい緑の世界を田村はさまよう。
餓え、フィリピン人の殺害などを経て、彼はパロンポンへの招集が発令された事をその過程で知る。しかしパロンポンを目前にして、兵士たちは次々殺されてゆく。その内飢餓感から、彼は人肉食に惹かれてゆく。
野火において敵は見えない。野火における主人公たちの敵は、現実通りアメリカ(連合国軍とは言うまい。大東亜戦争は世界大戦における"地域戦"である) だが、まるで得体の知れない未知の敵から攻撃されたかのように、何も守るすべなくなぎ倒され、しかばねを積み上げる。何よりもこの「ただの肉塊になる虚しさ」をこれでもかと突きつけてくるのがこのパロンポンへ向かう日本兵が一方的に殺されてゆく場面である。「鬼畜米英」や大本営発表の虚偽、連合国を過小評価していた当時の軍部のリテラシーの低さを考えると、この未知や「得体の知れなさ」というのは、切実な意味を持ってくるように思われる。
説教臭さはない。ともかく説教というのはどこかしら上からである。もっと塚本映画というのは暴力的である。同じ地平の確かな陸続きなのだ。そして地平からやってきて、こちらが観客であると言う安全地帯を徹底して切り崩そうとする。
食べ得ざるものを食べた人間の口許にはぬらぬらした血が滴っている。原作には神(のようなもの)が現れ、食べる事に警告を発するが、塚本版「野火」では、復員後、田村が奇妙な祈りを捧げているにとどめている。しかもその祈りは、食べ得ざるものを食べる前の行為に似ている。つまり屠殺という行為に…
彼は書斎を出る。その窓越しに"野火"の揺らめきを見る。
書斎を一歩出、その窓越しに"野火"を見る事は、結果として田村の中にある戦争が継続途中である事に他ならないのである。継続、あるいは永久戦争であろう。
ドイツワイマール体制下において、作家エルンスト・ユンガー曰く「両親の実家に復員していながらも、居間で野営している」(「冒険心」)という事そのままではないだろうか。
ここからある共通項を見出しえないだろうか?即ち、平和主義者も、対局の好戦主義者(これを対局と言えるのかどうか…)も、一度"野火"ーそれに類似する表徴を見てしまった以上、嫌が応にも戦争を継続せざるを得ないのではないかという事である。もっと言えば、戦争という宿命の場面に強制的に立たされる事を意味しないか。この位置から決して逃げ出す事はできない。特に一度体験したものは、そうであろう。
戦争は彼ら体験者にとって終わるものではない。(知った風な口きくな?ごもっとも)ポツダム宣言の受諾、終戦の詔勅、連合国軍による占領統治、サンフランシスコ平和調印によるカッコつきの主権回復を経ても、それでも戦争は終わらないのだ。人々は如何しても戦争を終わらせたいらしいが…。だが、戦争を継続するという事がどれほどの苦難か。
そのカッコつきの「戦闘」シーンについては如何やら「やりすぎだ」との意見もあったようだ。しかしそもそもこの映画が、あるいは現実が映す戦争とはやりすぎかそうでないかの「程度の問題」を比較するようなものであろうか?
戦争とは「徹底」している事だ。「貫徹」するという事だ。「徹底」したもの「貫徹」したものに、やりすぎも何もない。
創作物は製作者の意図を越える。いや寧ろ多様化する。人が考えるのは、その作品から受け取る、いわばプラスαの部分である。作られた時には個人的でしかなかった者が、ミームの受取手の誤読によって全体へと変化する。
この時大岡昇平の市川崑のそして塚本晋也の、彼らが意図していた意図を越え、ともすれば読者、視聴者の意図も越えてしまうのである。私の意図も越えるだろう。この時物語は独立し、全体になり、支配する。
塚本晋也は「徹底」し「貫徹」している。氏は了解しないだろうが、彼こそ"戦争"ではないだろうか。支配的なものに対する新しいやり方の"戦争"」