雪の轍 : 映画評論・批評
2015年6月23日更新
2015年6月27日より角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館ほかにてロードショー
チェーホフの影を色濃く感じさせる“めんどくさい人々”の会話劇
キノコみたいな奇岩の景観で知られる世界遺産カッパドキア。そこでホテルを営みながら悠々自適の暮しを送る「雪の轍」の主人公アイドゥンの名は監督ヌリ・ビルゲ・ジェイランの母国トルコの言葉で“インテリ”を意味するという。が、チェーホフ(短編「妻」「善人たち」はほぼ原作といってもいいくらいだ)の影を色濃く感じさせる本作を思えば、いっそロシア語の“インテリゲンツィア”なんて懐かしい呼び方を引っ張り出したい気にもなる。
実際、アイドゥンはロシア19世紀文学でおなじみの知識人、“余計者”の系譜などと呼ばれもした階層の贅沢な悩み――ぼんやりとした不安や憂鬱や退屈やメランコリーを身に染ませ、現代を舞台にした映画に奇妙なタイムスリップの感覚をもたらしもする。
洞穴にも似た自室にこもりトルコ演劇史をめぐる大著をと資料集めに励みつつ書き出す時を先延ばしにし続けている元俳優アイドゥンは、隠者の自由を満喫するかにも見える。けれどもその時空は現実にコミットできない逃避者としての彼と、出戻りの妹、歳の離れた妻とを閉所恐怖症的窒息状態へと囲い込みもする。
確信犯的に相手を傷つける言葉を選び、繰り返される堂々巡りの議論。自己本位で人を見下すシニカルな知の人と、もっとひねくれ辛辣で容赦ない妹の虚しい舌戦。善意と錯覚した施しの傲慢に気づかぬ幼い妻。赤子扱いする夫。人々は雪の世界に囚われ、いつ来るとも知れぬ春を待つ“冬眠(原題)”に逼塞(ひっそく)している。いってしまえば“めんどくさい人々”の会話劇。ちくちくと互いを射す言葉の痛さに耽溺するインテリゲンツィア的怠惰を演技陣がスリリングに形にする。
成り上がりの商人に荘園を奪われる女地主の哀しみのドラマ「桜の園」を“喜劇”と銘打ったチェーホフに通じる笑いがしめやかに世界に沈潜する。そんな“知的”時空に一石を投じる少年の沈黙の雄弁。人の虚偽を射る眼差しの厳しさ。その存在が映画の輝きとなっている。
(川口敦子)