「青春の爆発を巡るサスペンス」思春期ごっこ ニックルさんの映画レビュー(感想・評価)
青春の爆発を巡るサスペンス
冒頭、戯れる何人かの少女たち。主人公タカネのモノローグでこの物語がタカネとミカの失恋で終わるラブストーリーだという事が語られる。
続く図書館のシーンから美術室のシーンでタカネの油絵を巡る2人の協力関係が提示され、プールの更衣室のシーンではタカネのミカへの慕情が小道具水着を介してアブノーマルでありうる事が提示される。この辺りまで、この映画の撮影の素晴らしさが印象的で、タカネとミカの関係性を巡るシーンの殆どが、他のクラスメート達の戯れという安定的な関係の延長として捉えられるのだ。例えばモノローグ明けの図書館のシーンでははしゃぐクラスメートを流麗な移動撮影で追いかけ、カット変わると同じように二階のタカネとミカが追いかけられる。
もちろんドラマはこの安定的な関係性がどう崩れるかを巡って展開される。
2人の関係の間に割り込んでくるのは男性ではなく女性である。ある日、ミカは図書館に務める女性が実は憧れの小説の作者ナミエだったと知る。休憩中話す2人、ナミエの女同士の恋愛をモチーフにした小説について語るうちにミカ個人は女同士の恋愛については全く理解がない事が分かる。このシーンでタカネの恋心は絶対にミカには受け入れられない事が提示され、タカネとミカのシーンに於ける恋心の爆発に対してサスペンスがかかる。
プロットとそれを具現化する演出が実に見事である。再び美術室のやり取りから、タカネ•ミカの追いかけっこに及ぶ移動から渡り廊下でタカネが立ち止まって跪く。移動が止まるという事はこの映画にとって日常の臨海線に達するという非常に大きな意味を持つ。「どうして逃げるの?」ああ、この少女は自分が抱える恋心が世間的な規範からは離れてしまっている事に半分気づいていないのだ!爆発しそうな慕情の危うさとは、思春期そのものが抱える危うさのことだ。
タカネはミカにそのままキスをしようとするが、ミカは冗談に終わらせる。ミカが鈍感である事が更に映画の緊張を高めていく。ミカがレズビアン小説に興味を持ちながらもどこまでも鈍感であるという矛盾の巧みさ。
ナミエの登場以降、タカネ・ミカの同じ方向への移動を捉えるためのショットはすれ違いへと変質する。クラスメートであるオハギとミカの歩みを横移動で捉えながら、ミカがフレームアウト、奥から走ってくるタカネがオハギを通り過ぎて美術室に到着するといるはずのミカがいない。友人関係を表現してきた移動撮影を変質させて2人のすれ違いをその字の如くオハギを介したすれ違いとして捉える。撮影の中澤正行の空間力が光る。
ミカがタカネと美術予備校に見学に行くはずの日曜日は、ナミエが図書館での読み聞かせを行うはずの日だった。ミカは直前でタカネに断りのメールをし、図書館へと走る。その先の図書館ではナミエがミカの書いた童話を読んでいる。ナミエは指示されたオリジナル童話を書かなかったのだ。ナミエの側の秘密がバレるサスペンス、加えてタカネ•ミカのすれ違いという要素を時間的リアリズムを外して交錯させる編集も巧みだが、ここまでの展開、上手いのはナミエがある程度可哀想に見えるということだ。
童話を書けと言われた後、ナミエは同僚のアルバイトから過去の栄光で鼻を高くする惨めさを指摘される。ナミエはティーンの頃に一冊小説を出したきりで、結局小説で成功できなかった。しがない大人の苦味が彼女を盗作に走らせたのだろうか。素直に謝罪ができないナミエに共感させられながら、ある苦味を噛みしめるようだった。
タカネ・ミカの間には約束の反故を巡る軋轢が生じているが、ナミエから連絡が止まずミカはタカネの予備校に相談に行く。タカネはミカの携帯を取り、ナミエにもう連絡するなと告げるが若いタカネはミカとの関係を修復する術を持たない。ミカは再び逢いにきたナミエに引き止められた際に事故で足を骨折、さらに逢いに来るナミエ。ここでの3人の芝居も見事だし、その後ナミエを呼び出してのタカネこと穂花未来の芝居も10代の恐ろしさすら感じさせるものだった。
タカネはミカをプールに呼び出して、ミカの水着を盗んだことや、自分がミカを愛している事を告げる。それにしてもこの学校のセキュリティはどうなっているのか笑という冷静なツッコミもありつつも、クライマックスでリアリティを敢えて無視した所から強い芝居が立ち上がっていたように思う。結局若い2人は歪な関係を修復する術を持たないのだった。
伊丹十三風に挿入されるナミエのレズビアン小説の描写を通してミカは最後になってタカネの真っ直ぐな気持ちに気付くという伏線の張り方はおもしろいのだが、気付くのが大分遅い。過剰に遅いということがドラマを盛り上げていたのだと思う。