「彼女が最後に選んだものは」ハーモニー das Stoutさんの映画レビュー(感想・評価)
彼女が最後に選んだものは
「管理社会」というのは,SFというジャンルにおいて定番とも言えるテーマだ.
人々はその一挙手一投足を何者かの目の下に晒され,行動は,その行動を司る「意識」は,自ずと抑圧される.
『ハーモニー』が描くのは,「健康であること」が究極の善とされ,それを維持するために隅々まで管理の行き届いた世界である.
その「社会」に反発し,自死を試みた3人の少女がいた.舞台はそれから13年後.
3人の少女,もとい「同志」のうち,ひとりは自死を遂げ,ひとりは「社会」に順応し,そして主人公である霧慧トァンは,自らの時を止めたかのように,小さな反発と逃避を繰り返す日々を送っていた.
あるとき,ちょっとした切欠から,トァンはかつての同志,零下堂キアンと再会する.
しかし,再会は平和裏に終わらず,二人が食事をともにした日,キアンはトァンの目の前で自らの命を断ってしまう.それは,同時に数千人が自死を遂げた,「健康」を揺るがす事件の一部であった.
トァンは「管理社会」の主幹のひとつ,WHOの「螺旋監察官」として,この事件の捜査に当たっていた.主犯者からの「隣人を殺せ」というメッセージが全世界に配信されたことにより,世界は混沌を深める中,トァンはかつて姿を消した自身の父,霧慧ヌァザと,亡くなったはずの「同志」,御冷ミァハが事件に深く関与している可能性に行き着く.
父とミァハは,ヒトの「意識」を制御するプログラム,「ハーモニー」を巡って対立関係にあった.
「管理社会」技術の生みの親である冴紀教授によれば,「意識」とは,様々な欲求が利己的に振舞う中,脳の報酬系と強く結びついた行動を選び取る仕組みなのだという.それが「わたし」を「わたし」たらしめているのだという.
父のグループが開発し,そして半ば凍結していた,意識を制御することの副作用としてヒトの「意識」を失わせるプログラム,「ハーモニー」を,ミァハは起動させるべく動いているのだった.
トァンは困惑する.ミァハはかつて,「管理」の下で自分を失うことを憎悪し,自死を図ったのではないか.そんな彼女が,「意識」を消失した社会を望むのだろうか,と.
トァンはミァハに接触すべく,「管理」の届かない地域へと足を延ばす.
ミァハはトァンの接触を予期していたかのように,トァンに山奥のある施設に単身で来るよう指示を出していた.
トァンは遂に,ミァハと接触する.
ミァハはかつて共に自死を願ったそのままの姿で,自身の壮絶な過去を告げ,そして,全人類が「意識」を失うことを望んでいことを,彼女は否定しなかった.
トァンは選んだ.ただ,かつて彼女が愛したミァハが「わたし」を失うことを.
「わたし」を失うことなく,その生涯を閉じることを.
----------------------------------------------------------
『虐殺器官』の劇場版をみた次に,この映画を見た.
本当に,これだけの作家が早くに亡くなったことは,個人的な感情として耐えがたいものがある.
『1984年』から30年以上の時を経た今,私には「管理社会」はフィクションのものだけと言い切る自信がない.事細かな行動から身体の成長まで,集権的な「何か」に掌握された社会で,私たちはどうして「わたし」を保つことができるというのか.「わたし」の意思決定には,常に監視の目が介入してくる.監視の存在を意識せずに,「意識」を保つことなど不可能になる.
……あれ? いまの社会って,本当に「わたし」を保つ自由を保証してくれてなどいるのだろうか.
集権的な「何か」でないにしても,私たちの「意識」は少なからず,それどころか,かなりの部分が他者の目の支配を受けているのではないか?
ごくごく近い某国では,「信用スコア」なる,管理指標が現実のものとなりつつあるのではないか?
著者は明確に,「意識」とは何かという問いを読者(視聴者)に投げかけている.
「わたし」が「わたし」であることを善とするのは,言うまでもなく,自由主義のイデオロギーを持つ者の価値観である.歴史を遡れば,家族主義が善とされた社会の残滓はごく身近に感じられるし,国家主義が善とされた社会も確かに存在していて,それは相対的なものに過ぎない.
それでも私が自由を愛するのは,自由であるからこそ自由を疑う作品を楽しむことができ,そして,自由を疑うものすら愛することができることである.
自由主義社会は,それを疑う者すら受け入れる懐の深さを備えているというただ一点において,それが仮に何らかの意味で非効率であったとしても,尊重する価値があるものだと私は信じている.
マイナス1点しているのは,原作小説をちらっと見た限り,削られているやりとりが相当にあること,そして,肝心の彼女の最後の行動が,映画とは違う動機に根差している可能性があることである.
原作主義者ではないし,映画は映画で違和感なく見ることができたのでおおむね満足はしているものの,原作から入った場合には違う印象を抱いた可能性がある.特に,結末が少なからず曲がっている可能性を感じてしまったので,1点マイナスとした.