「ラストシーンの改悪で台無し」ハーモニー Anubisさんの映画レビュー(感想・評価)
ラストシーンの改悪で台無し
映画が作られた経緯や伊藤計劃氏について深くここでは語りません。そういう内容は調べればわかることですし、ここではこの映画自体についてレビューを致します。ネタバレあり。原作既読者向けです。
【演出・作画】
可もなく不可もなくというもの。序盤のラクダの作画がちょぼらうにょぽみの書く不思議生物のようなひどい作画ではあったが。意図的に3DCGを多用することによる無機物感や、監視社会を印象づける俯瞰のカメラや主観視点、生府の外の自然な背景と、生府の人工物のコントラストなどは上手くまとまっており。作品世界を確かに描き出している。
尤も、同プロジェクトの『屍者の帝国』と比べると、背景美術や演出効果のレベルは低く感じられる。もっと良くする余地はあるという惜しいものであった。
【ストーリー】
原作ありきの作品でストーリーを論じる場合、それは一重に『原作からの改変があるのか』というところが論点となるだろう。そして改変があった場合、『その改変は良いものか悪いものか』という点が評価の肝となる。
結論からいうと、この映画には最低最悪の改変があった。つまるところ、評価が☆1になっているのも。この映画レビューを書こうと思い立ったのも、全てその改悪が原因である。ただ1点の改悪が映画全てを腐敗物の集合体にしてしまった。こう言わせていただきたい、「どうしてこうなった」
改悪の内容は主人公のトァンが御冷ミァハに持っている感情を至極単純な『愛している』なんていうセリフで片付けてしまい。原作のラストシーンの意図を大きく歪めたというものだ。この映画でも原作と同じように、トァンがミァハを銃殺し、ハーモニープログラムが起動して全人類から意識が失われるのだが。その理由が「ミァハは私の知ってるミァハのままでいて」「愛してる」なんていう原作には一切ないセリフで片付けられる。一体なぜこんなことになったのか。
途中の回想シーンでも、何故かキスをしたり恋人ツナギをしていたりと、同性愛な雰囲気を醸し出していたので嫌な気持ちではいたものの、それがラストの展開まで歪めてしまうと誰が予想できただろうか。ラストシーンで「愛してる」なんていうセリフが出た時、私は思わず映画館で変な声を上げてしまった。
原作未読者の為に説明をすると。原作でトァンは親友と父親を殺された復讐と称してミァハを撃つ。それはハーモニープログラムで奪われるであろう自分の意志が選択した復讐という非合理な行動だ。もちろん射殺の理由には復讐だけではなく、記憶の中のミァハが望んでいたものと、現在のミァハが目指す物の違いに対する拒否感や、それこそ同性愛的な愛憎も入り混じっていたものである。そういった、脳内の様々な欲求が入り混じってできる『意志』や『意識』というものが選択をした結果が復讐としての射殺だった。
ミァハ自身も復讐を受け入れ、トァンに「これで――許してくれる……」と問いかけ、トアンは「わたしの復讐は終わったわ」と返す。そこには単純な憎悪や復讐心だけでは語られない「意識」・「意志」が存在した。その複雑さや葛藤を排除している映画の結末はハーモニープログラムで意識の消失した人間が考えた物なのではないかと思わせられる程の許されざる改悪であろう。
物語の根幹をボカし、描くべきものを歪め、作品を残した伊藤計劃氏すら侮蔑するような改悪だ。これを作った人間はこうしたほうがわかりやすいだとか、こうしたほうが商業的に成功するだとか、そういう合理的な判断のもと改悪を行ったのだろう。その結果、映画単体で見ても凡作に堕ちている。原作が好きな人間にとっては駄作や侮辱とられてもおかしくない。
映画だけを見て、原作を読んでない人は原作を読もう。原作を読んで映画を見ていない人は、ラストシーンの手前で映画館から帰りましょう。それが一番賢い選択。
【音楽】
エンディングテーマは予告編のころからすごい好きだったんですが。あのラストから聞くと胸糞が悪くなるので、やはりラストシーンは見ないで帰るほうがいいです。スタッフロールの後にミァハを撃ったあとのトァンが描かれることもないです。
【結論】
ミァハの声は脳がとろけるようでいい
ラストシーン以外は概ね良い
ラストシーン改悪のせいで全てがぶち壊されている
ミァハがステップを踏み始めたら映画館から出ましょう