あの日の声を探してのレビュー・感想・評価
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戦争の中で生きる健気な少年
戦争で両親が死に、姉とはぐれ、赤ちゃんと取り残された、少年。巡り合った人に助けられ、明るさを取り戻しダンスをするシーンがホッとしました。
まなざし
破壊した家。火が上がっている村。負傷した人達。素人が戦場をビデオカメラで撮影している様なオープニング。
チェチェン紛争で両親を兵士に殺され言葉を放棄した少年と兵士になっていく青年、ふたりの物語を通して、戦争の不条理を描いています。彼らはもしかしたら立場が逆転することもあり得る。誰もが殺され殺すこと、それが戦争だと言われているようでした。
精神的にも肉体的にも青年から兵士へと作りあげられている様は、戦車や戦機の音、上官の罵声と相まって、背筋が凍ります。
また、言葉を発しない少年のまなざしが悲しみに溢れていて、何とも言えない辛い気持ちになりました。
チェチェン紛争というあまり取り上げられることのない題材は良かったのですが、ラストまでの伏線が見えてしまったため、点数は少なめです。
大きな感動があったと思う、とても真に迫るいい映画です。手持ちカメラ...
大きな感動があったと思う、とても真に迫るいい映画です。手持ちカメラでの撮影が真実をしっかりと伝えてくれる。
ボロボロ泣くような演出がある訳じゃないしそういった意味で感動するとは全然違う感動がしっかりと詰まってる。
再会シーンや少年の心が開けてく過程は心温まるものでした。少年の傷は癒えるのだろうか。癒えて欲しいと願います。
そんな中、強制入隊させられる若者の変化が暴力の恐ろしさや人間の愚かさを刻々と伝えてる。おぞましいです。平凡な若者がドンドン人の死に鈍感になって、しまいにはなんでも無くなってって軍に戦争に染まっていくのは衝撃。でも武器を持って戦場に繰り出す上では正常な精神なのか、屈強と言えば屈強だが、どうしても人外としか思えない行動に鳥肌が立つし顔も歪む。
今も何処かで似た行為が行われてる訳だからゾッとする。どう考えたらいいか、何もできないしちっぽけなもんですよ。みんなこの映画を観て、他人事に可哀想と思うだけだろうし、僕も変わらないんだけども。
結局みんな正月には笑って家族や恋人と過ごすんですよ。当たり前なんだけど、それが当たり前じゃない人達がいるのに。それを責めれないですしね当たり前なんですけど。そういった事も描かれた内容です。
やはり平和が大切です。宗教やら利潤やらで奪っていいものじゃないですよ。なんか悲しくなります。
映画として、オープンニングとエンディングのつながり、最後にして全ての時系列が整う辺り、おうって思う。なるほど感がある。
よかった
9歳の子供を引き取って育てる映画だと思ったらそのような場面は非常にドライで、静かな感動を呼ぶのではあるものの、もっと激しく泣けると思っていたので肩透かしだった。映画が全体的にリアリズムでストイックな分、とてもテンポがゆるやかで退屈で眠くなる。字幕を3つくらい見落とす感じでコックリきた。いい映画だとは思うけどとにかく眠い。
少年が赤ちゃんを抱いて道を歩いていく場面は悲しかった。1歳半くらいの赤ちゃんなんて大人が抱いても相当重いのに、あんな小さい子が抱いていてさぞ重かっただろう。
少年がお姉ちゃんと再会する場面の実にリアルな軽い感じが面白かった。実際泣くよりびっくりしたり嬉しかったりする方が先行してあんな感じなのではないだろうか。よかった。
そして戦争は誰もが傷つく。すごく悲しくてよくないものだと身に染みた。
山田洋次監督、大林監督の絶賛を受けて
日本の巨匠であるお二人の絶賛を聞いてみかたが変わりました。これは描かれるべくして描かれた作品。大林監督のトークショーの回に見ましたが、映画を見るには教養がないと100パーセント楽しめない。まさに話を聞いてその通りだなと思いました。
実際この映画のミシェル監督はかなりのインテリ。山河遥かなりやそのほかにはも大量の作品をみて作られてるのは明らか。冒頭と終わりのシーンがつながるのもとても深い。監督自らが手持ちカメラで撮影したあの映像に監督のこの作品に対する姿勢が感じられ、甘い考えで戦争映画を撮っていないのがわかる。
記憶は忘れてしまう。だからフィクションの記録を撮って後世にこの事実を残す。お堅い事実だけのドキュメンタリーは残念ながら見られないから。
媒体は違いますが、50年前の新聞を読む人はほとんどいませんが50年前の映画は見られる。
映画の存在価値をずしりと思い知らされました。
今生きている私たちはそれを一人でも多くの人が見られるようにする努力が必要なのかもしれません。
戦場に既視感、寄り添う強さ
民間人をテロリストと呼び、平然と銃を向ける兵士の姿は、ベトナム戦争のドキュメンタリーや映画と似ているなと思って見ていたら、兵士の養成も同じかもっと野蛮だった。
戦争前のこの地方の生活が、この映画では今ひとつ伝わってこない。姉がアメリカへの留学を目指して英語を学んでいたこと、9才の男の子のダンスはきっと父親仕込みのものだったであろうことくらいしか、私の貧しい知識と想像力では思い描けない。
それゆえに男の子の演技だけに焦点が当たる。
なぜ今チェチェンなのか、もっと描いてほしかった。
EU、赤十字が援助や調査に入っていること、民間人に対する攻撃に無力、焦燥を感じていることも伝わってきた。
立場の違いを超えて、寄り添うことが回復につながることが、この映画のメッセージでしょうか。
世界に対して無関心ではいけないと思います。
あの日のダンス。
オンライン試写会にて鑑賞。
F・ジンネマンの「山河遥かなり」を基にM・アザナヴィシウスが
1999年ロシアに侵攻されたチェチェンを舞台に描いた意欲作。
大まかなプロットは同じだが主人公にもう一人、軍に強制入隊
させられたロシア人青年コーリャを儲けたことで現実味が増した。
冒頭から惨劇は始まる。両親を家の前で殺されたチェチェン人の
ハジはそのショックで声を失い、赤子の弟とその後家を脱出する。
一緒に殺されたかもしれない姉を心配しつつ、弟を燐家の玄関に
預けて自身は街中へと放浪、やがてEUの女性職員キャロルと
出逢い彼女の自宅に保護されるのだったが。。
ハジとキャロルの(言葉が通じない)歯がゆさと意識のすれ違いに
ハラハラするも、自分を匿い親切に面倒を見てくれるキャロルに
やがてハジも心を拓き、それをきっかけに声が出るようになる。
原版と同じく温かい心の通い合いと国間を超えた理解の大切さに
胸がジーンとなるのだが、対して街中で突然警察に捉えられた後
ロシア軍に強制入隊させられ非人道的な体罰訓練に苦しめられる
コーリャが哀れでならない。心根の優しい人道的価値観を持った
青年が追い詰められ、やがて残虐な兵士へと改変されていく過程。
この二つの物語は並行して描かれるも、決して交わることはない。
それがラスト、とある動作で冒頭の場面の意味が突然解明される。
あ!と思ったその瞬間、物語は突然幕を下ろす。そうだったのか…
其々の立場と意識を克明に炙り出し、正義非正義を問わず終わる
この物語は私達に「決して無関心になるなよ」と訴えているようだ。
(A・ベニングもさすがの演技。ダンスの告白シーンは泣けた泣けた)
極限状態下の環境で人間がどのように変わっていくのか?
『陽だまりハウスでマラソンを』と同じように題名と内容の違いに驚いた。邦題に「?」をつけたい。極限状態下の環境で人間がどのように変わっていくのか。息を呑むような場面に言葉が出なかった…。街の中で、青年が軍に強制入隊されてからの変貌ぶりは明らかであった。この映画は、チェチェン紛争に巻き込まれた者達が自分の生活を否応なく振り回されていく悲しずぎる残酷すぎる作品であると思った。最後の方で弟と姉が偶然再会する場面は、作品の中の一つの感動的な挿話にすぎない。でも、話の全体から見れば、それはそれで素晴らしくて良かった。
戦争をするということは、人間の精神・理性・常識が完全に吹っ飛んでしまうんだなということに気づかされた。
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