勝手にしやがれのレビュー・感想・評価
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最低って何の事?キザな作家を演じたメルビルは最高だったよ。
このところ柔道を中心にパリ・オリンピックを見ているが、審判の判定が?な物が多く(柔道に限らないが)なんだかなあって感じで、これなら深夜までオリンピック観戦しないでCSで映画観ていた方が良かったかなと思っています。
60年程前のパリを舞台にした「勝手にしやがれ」をNHK-BSで。
1960年の作品で、昔、ソフトで鑑賞した事があるが内容は殆ど忘れていた。ヌーベルバーグの代表作と言われてもあまりピンと来なかった覚えがある。
今では当たり前になった街中を手持ちカメラで撮るのも、これが先駆となったと思うとなるほどとは思うが。
一番観たかったのは、「サムライ」のジャン・ピエール・メルビル監督が出演しているシーンだ。
ジーン・セバーグが仕事でベルモンドと別れて取材に行く作家バルヴュレスコを演じているのがジャン・ピエール・メルビル監督である。ヌーベルバーグの監督たちからも尊敬されていたので出演する事になったようだ。
サングラスを掛けて帽子をかぶったキザな作家は「信じられるのは愛だけです」なんて事をのたまう。(メルビルは演出する時もサングラスを着用していたらしい)
ジーン・セバーグが「人生最大の野心は?」という質問をすると「不老不死となって死ぬ事です」と答える。このシーンが観られただけで良し。
ジーン・セバーグが殺人犯のベルモンドを警察に密告する。その事をベルモンドにも告げるがベルモンドは逃げない。やってきた刑事に撃たれたベルモンドは腰を押さえながら街中を逃げる(この後を手持ちカメラが追う)。倒れ込んだベルモンドは「最低だ」と言って自分で目を閉じ息絶える。「最低って何の事?」と言うジーン・セバーグのアップで映画は終わるのだ。
このシーンは、途中であったシーンのリフレイン。ベルモンドが自分で目を閉じる前の表情が同じである。ジーン・セバーグの返しの言葉も一緒である。
「最低って何の事?」キザな作家を演じたメルビルは最高だったよ。
根無し草青年のミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)。 自動車泥棒...
根無し草青年のミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)。
自動車泥棒の常習で、女性から金をくすねての生活。
今日もマルセイユで盗んだ車でパリに向っていたところ、スピード違反で白バイの警官に追いかけられる羽目に。
が、いつもと違ったのは、車のダッシュボードに拳銃が入っていたこと。
ひょんなことで警官を射殺。
追われる立場になってしまう・・・
といったところからはじまる物語で、その後・・・
パリへ戻ったミシェルは女のもとを転々とし、貸した金の取り立てをするも渡されたのはヤミ小切手で、現金化するには別の男の下へ行かねばならなくなる。
途中、数週前に南仏で知り合ったキュートな米国娘パトリシア(ジーン・セバーグ)と再会。
ベタベタと付きまとうが、パトリシアは束縛されるのがイヤ。
ついには、警察にミシェルの居場所を密告し、ミシェルは射殺されてしまう・・・
と展開する物語はあらすじだけ抜き出すとバカみたいだ。
まぁ、チンピラを主人公にした犯罪映画のハナシなんて、バカみたいなものが多いんだけれど。
撃たれたミシェルはパリの街路をフラフラと逃げ歩いた挙句、「最低だ・・・」と呟き、自らの手で瞼をおろして死んでしまうが、「バカだな・・・」と読み替えてもいいでしょう。
で、この映画を物語を語っても仕方がない。
やはり、強烈な音楽と映像のスタイルで語るべき映画だろうし、また、そう語られてきた。
ビートとパンチの効いた音楽、ギクシャクとしたカッティングと編集。
特に映像については、製作された1959年の時点では、相当強烈な印象を残したはず。
鑑賞後、中条省平の新書『フランス映画史の誘惑』で確認したところ、ジャンプカットと呼ばれる、間を縮めた編集つなぎは、長回しで撮っていたがゆえに尺が長くなりすぎ、尺を縮めるための編集だったそうな。
そういわれれば、「ヘラルド・トリビューン紙」を売り歩くパトリシアと再会したミシェルが彼女と話しながらが歩くシーンや、ホテルの一室でミシェルと交わす男女の駆け引きのシーン、最後のフラフラ逃げるミシェルのシーンなど随所で長回しが登場する。
これらのシーンは、切るに切れなかったということだろう。
逆に、ヘラルド・トリビューン紙のパトリシアの上司が彼女に著名作家の取材に行けというシーン(取材後の話を聞くシーンだったけ?)は、あまりに冗漫なので、セリフの間まで詰めている。
自動車での移動シーンも長く撮ったが、繋げると冗漫だったので、短く繋げたのかもしれませんし、冒頭の警官殺しのシーンは、逆に、全然撮っておらず、ショットが足りない感じがします。
ということで、ヌーヴェルバーグ的カッティングと編集は、尺との闘いから生まれたのですね。
で、この映画以降、ヌーヴェルバーグ的手法が他の映画でも頻繁に用いられるようになるわけですが、それはまた別のハナシ。
この映画を観て、「なんだか、前にどこか別の映画で観たような感じが・・・」と感じたならば、それはこの映画の模倣ですから。
自由で奔放!
Blu-rayで鑑賞(字幕)。
即興演出や手持ちカメラの撮影は、今や一般的な手法だと思いますが、本作がパイオニアと考えるとすごいな、と…
パイオニアなのにすでにして洗練されていると云うか、カメラの揺れさえも物語の一部になっている感覚でした。
奔放なミシェルと自由が欲しいパトリシアを象徴するかのように、編集もカメラワークも勝手気儘に編まれているのはかなりおしゃれな感じがして、刺激的だなと思いました。
なんで日本語字幕が「最低だ」なのか
すごく昔の作品なのに、この点に触れられているコメントはほとんど見ないので、今更だけど書きます。
ベルモンドの最期のセリフは「デギュラス」degueulasseなんだけど、これは直訳なら「吐き気を催すほどのもの」という意味で、状況がそれほどひどいということ。
忌避すべき、くらいの強いニュアンスで使うけど、容姿形容で使われることが多い。
本編なかほどでベルモンドはセバーグにこの言葉を使っている。そこでの訳は「醜い」になっている。
ベ「本心とは逆のことを言うもんだ」ベ「君は醜い(デギュラス)」セ「デギュラスって?(フランス語がつたないアメリカ人なので意味がわからない」
ここでベルモンドは変顔してみせる。
このやりとりが、まんまベルモンド最期のシーンに繋がる。ベルモンドはまず変顔し、そしてデギュラスと言って息絶える。
セバーグが何て言ったのか刑事に聞いて、デギュラスと言ったと彼は答える。
それはシチュエーションからしたら「(裏切って)お前は最低だ」と理解すべきなのかもしれないが、彼女は変顔とセリフから、あの時のやりとりだとわかる。
そして彼を理解して、彼の癖だった唇を拭うしぐさをする。
そういうシーン。でもこれが、邦訳の「最低だ」だけだとさっぱりわからない。
台詞上「Tu es ~(君は)」と「C'est ~(こんなの)」の違いはあれど、デギュラスは重要なキーワード。そこはしっかりわかるように翻訳してほしい。
あと、日本語字幕では「車」としか書いてないけど、セリフでは2CV(シトロエン)や403(プジョー)等と車種を言ってたり、彼女のことを聞かれて「アメリカ人」と言ってることになってるけど実際には「ニューヨーカー」と言ってたり。
ゴダールは台詞にもかなり気を配っているので、もう一度しっかり訳して欲しいなあ。
ミシェルの「まったく最低だ」は「愛してる」と同義に解釈できるように...
ミシェルの「まったく最低だ」は「愛してる」と同義に解釈できるように思う。
「まったく最低だ」を最後に死んでしまうミシェル。フランス語がそこまで堪能じゃないアメリカ人のパトリシアにはうまく意味が飲み込めない。「なんて言ったの?」と刑事に問いかけるけれど、刑事は「あなたはまったく最低だと」と答える。
ミシェルとパトリシア、ふたりのあいだでのみ共有される可能性のあった言葉が、第三者を介して「正しい言葉」で「翻訳」された瞬間に、「愛してる」という意味を失う。
映画の最後は、パトリシアの「最低ってなんのこと?」という言葉とパトリシアによって再現されるミシェルの癖だった仕草。
パトリシアがミシェルの「最低」という言葉を理解できなかったのは、フランス語がわからなかったせいなのか、それとも、彼の感情も自分の感情もわからなかったせいなのか、また、それとも、別の何かなのか、
言葉による、ふたりの永遠のすれ違いが描かれる。しかし、死んだミシェルが、パトリシアによって、仕草として再現されることで、彼女の中に彼がまた現れる。失われると同時にまたなにかが生まれる、
ミシェルにとって、言葉や言葉の意味なんてどうでもよかったのかもしれないと思うことがある。美しいも醜いも、どちらも同じ。そこにあるのはパトリシアに向けた、君を抱きたい、愛してる、という真っ直ぐな感情だけ。もはや意味は、意味を、持たない。もちろん、まったく最低だ、も。
言葉メモ
「星占いって?」「未来のことさ」
「フランス人は5分を1秒と言うのね」
メモ
人殺しのミシェルと、ミシェルを密告して死に追いやるパトリシア。パトリシアのミシェルに対する複雑な感情はミシェルと同じ人殺しになる、という同一化願望のようなものもあるのかもしれない。ミシェルが死んだあと、パトリシアがミシェルの仕草を模倣するのも、同一化の象徴なのかもしれない。
傑作だと言うのなら、僕の感性がまだまだと言う事。
初めて見る。傑作だと言うが、緊迫感はないし、笑いもなく、泣けることもない。メッセージも全く理解できず、困惑している。これが傑作だと言うのなら、僕の感性がまだまだと言うこと。タバコばかり咥えるのは多分演出だと思うが、なんかウザく感じる。この女性を、死ぬくらい愛してしまった理由が分からない。同様に女性がこの男を好きになった理由も分からない。殺人を犯したのに、パリの街中で平凡に一日を過ごす、その状態を不条理として描いたのだろうが、僕は全く共感出来ない。ジャン・ポール・ベルモンドはアクションの人ですから。
僕の感性が異常なのか?それとも、この作品が過大評価されているのか?
『ピエロ』も見てみようと思う。
邦題カッコいいな
フランス人の男性とアメリカ人女子大生のリゾートでのアバンチュールが、夏が終わって深い愛に発展するのかどうか…。
女子大生も、魅力的な男にパリまで会いに来られて悪い気はしない。
可能性は0ではなかった。
でも、男が警察に追われる犯罪者であることが分かり、ローマまで逃避行を共にと言われた時、女子大生の気持ちははっきりする。
せっかく記者になる夢のとっかかりがみえてきたところなのに、男の魅力に囚われて一緒に行ってしまえば、それでは自分は思い描いていた人生を生きられない。
結果…よかった、しっかりしてた!笑
しかもラストの、思い入れが強かったのは断然男のほうだったというオチがついてるのが、フランス映画っぽいなと思った。
やっぱり、ロマンチストなのは男性のほうかもしれない。笑
この映画でスターになった、ジャン・ポールベルモンド(当時27才)とジーン・セバーグ(同22才)がイキイキしていて良かった。
モノクロでオシャレ
ジャン:ポール、ベルモントさん追悼作品で鑑賞。
パリの街並みも絵になるし、ミシェルが次々と盗むクラシックカーも良き。それに乗る2人もバッチリ。
ミシェルは女友達からお金を盗んだり(少し貸してあげるっていうのを、わざわざ断って、ほぼ抜き取る)、小説や音楽を知っているとか、昔住んでた家とか嘘ばっかりのワルだけど、何故かパトリシアも嫌いになれずで。
ショートカットとワンピースのジーン、セバーグもとてもキュートで魅力的。彼女も縛られたくないーと、雑誌社の男にも気を許している。
ついに警察から追われても、2人は離れず、カンパーニュの隠れ家へ。この2階からの撮影アングルが好き◎
顔の体操みたいに、口を開けたり眉を寄せたり、おどけて死んでゆくミシェルもチャーミングでした◎
ケス ・ク・セ・シネマ? 映画文法の既成概念を壊したゴダール監督の、男と女の相違の追跡
これまでに「女は女である」「軽蔑」「気狂いピエロ」「男性・女性」「中国女」「ウィークエンド」「カルメンという名の女」しか観ていないジャン=リュック・ゴダール監督の長編第一作を漸く鑑賞する。予想に反して、とても面白かった。と同時に斬新な演出と編集に深く感銘も受けた。ここ数年では最も映画から刺激を受けた貴重な経験を得る。
映画の面白さや良さを淀川長治氏の本で勉強した10代の頃は、ゴダール監督は追い掛ける対象ではなかった。その後、蓮實重彦氏と山田宏一氏との対談本で、淀川氏がロベルト・ロッセリーニとジャン=リュック・ゴダールの二人を映画を破壊した映画監督の代表として批判している文章を読んで半ば納得していた。映画の歴史において一大エポックのネオレアリズモとヌーベルバーグを代表する監督を認めたくない淀川長治氏の映画愛を、それなりに理解しているからだ。
この映画には起伏の有る物語性はない。あるのは一組の男女がすれ違う意識の葛藤劇。主人公ミシェル・ポワカールは、元々エール・フランスの乗客係だったのが、今は高級自動車や現金を盗む犯罪人に落ちぶれたフランス男。三週間前のニースで彼と男女の関係になったパトリシア・フランキーニは、いづれは小説家になる夢を持つアメリカ人ライター。この国籍を異にする男と女の会話劇を、パリのアパートの一室と車を走らせたパリの街並みの背景で描写したリアリティの面白さ。事件の発端は、マルセイユで車を盗んでパリに逃げる途中で追う警察官を射殺して始まる。殺人の重罪犯になり、イタリアに逃亡するための資金作りの為にパリのパトリシアのアパートに転がり込む。そして全編の四分の一を占める、アパートに押し入ったミシェルと朝帰りのパトリシアが会話するシークエンスが素晴らしい。女遊びを重ねるバツイチのミシェルの自分勝手な求愛と、そんな駄目男に惹かれながらも自立した生き方を望むパトリシアの信念がぶつかり合う。”見つめ合っても結局無意味”を、ベッドルームとバスルームだけの空間で延々と25分ほど描写しているだけなのだが、ここの台詞の面白さと演出の巧さは特に傑出している。その後の起承転結で言えば転に当たる、パトリシアがヴィタル刑事からミシェルの指名手配を知らされるシーンのカメラが二回転するワンカットが面白い。ゴダール監督は溝口健二の信奉者として有名だが、これは「雨月物語」のラストのカメラ一回転に対するオマージュになっているのかも知れない。
映画の基本的なルールを敢えて破ったジャンプカットの使用は、不思議なリズムを生んでいるし、手持ちカメラで微かにブレるフレームの不安定さは、逃亡するミシェルの心理を視覚化している。助手席のカメラに向かってミシェルが語り掛けるところも、当時では危険な試みであっただろう。既存の安定した映画文法からかけ離れたものでも、それに対するリスペクトの裏付けが感じられて、これはゴダール監督の型破りの演出と編集で独自の映像の世界観を創作した傑作であると思う。けして形無しの技法ではないし、演出と演技とマルシャン・ソラルのジャズ音楽が統一されていて素晴らしいと絶賛したい。ハンフリー・ボガートに憧れるミシェルの帽子のファッションとタバコを絶やさないジャン=ポール・ベルモンドの役作りのスマートさ。セシルカットで自立した女性像を鮮明に印象付けたジーン・セバーグの清潔感とキュートな魅力もいい。因みにヴィダル刑事を演じたダニエル・ブーランジェが、カルト的名作「まぼろしの市街戦」の脚本家と知って大変驚いた。ジャン=ピエール・メルヴィルが演じた空港でインタビューを受ける文化人の役も存在感充分。そして、この救いようがない最低の馬鹿男ミシェルを通報する密告者をゴダール監督自身が演じる戒めが、作品を作家の映画にしている。
この作品が公開された1960年の外国映画の充実度は飛び抜けている。私的ベストを付け加えて、この映画を称賛します。
「誓いの休暇」
「若者のすべて」
「太陽がいっぱい」
「甘い生活」
「チャップリンの独裁者」
「大人は判ってくれない」
「勝手にしやがれ」
「スリ」
「黒いオルフェ」
「サイコ」
次点「ロべレ将軍」「橋」「アパートの鍵貸します」
逆撫で映画
自堕落な若者へのシンパシー映画なのでしょうか、ヌーベルバーグの代表作として賞賛を受けた映画です。主題の変革の他にもロケ中心、即興演出、ジャンプ編集など意欲的、主人公がカメラ目線で観客に語りかけるなど常識破りがテーマの様です。
こともあろうに主人公は自動車泥棒ばかりか恋人の財布から金をくすねる最低の小悪党、人命の軽視など自己中心的で快楽主義者、そればかりか美男子の代表アラン・ドロンの全否定なのでしょうかジャン=ポール・ベルモンド起用、ボクサー時代に潰したソーセージ鼻の面相と相まって見るに堪えない。それがこともあろうに上品で美人のジーン・セバーグにもてるなんて納得いかずと観ていたら、やはり罰は下ったと言う既定路線。
露悪性が気に入らないとしてもフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールの作家性だから致し方ない。古いものに対するレジスタンスはフランスの国民性とでも言えるのだろう。
従来なら日の当たらなかった人物像やタブーへの挑戦的な試みは映画表現の幅を広げハリウッドや日本の映画人にも多大な影響を与えた点では映画史上の金字塔なのでしょう。
彼女の気持ち
愛したいけど、愛しなくない。
そんな身勝手な彼女に共感なんてできないと思ったけど、映画館を出た私は、すっかりパトリシアになった気分。
全く最低だの最後のセリフは、パトリシアが最低な女という意味ではなく、きっと惚れちまった最低だの意味かな。
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