「フィルム・ノワールの「分流」としてのヌーヴェル・ヴァーグ。その起点を成すゴダール流「ファム・ファタル」映画」勝手にしやがれ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
フィルム・ノワールの「分流」としてのヌーヴェル・ヴァーグ。その起点を成すゴダール流「ファム・ファタル」映画
ジャン・ポール・ベルモンドの『リオの男』で、ベルモンドがさんざん車を後ろから走って追っかけてったり、最初から最後まで無賃乗車を繰り返しながらパリからリオまで行ってまた帰ってきたりするのって、思い切り『勝手にしやがれ』のパロディだったんだな(笑)。
今回およそ30年ぶりに観て、初めて気づいたよ。
あまりに仕事が忙しすぎて、有楽町で観られず、横浜でも観られず。
ようやく柏のキネマ旬報シアターでのリヴァイヴァルで観ることができました。
大学生の時以来だから、筋から何からさっぱり忘れてた。
ゴダールといえばやはり「難解」という印象がどうしても強いが、長編第一作である本作は、必ずしもそれは当てはまらない。
たしかに、技術や演出技法において当時真に革新的だったことは確かだが、のちのゴダール映画とちがって、いちおうちゃんと筋はあるし、何が行なわれているかもだいたいわかる。
すなわち、ある程度は物語映画としての「体裁」を保っている。
むしろ、オーソドックスな「ノワール」+「恋愛映画」=「逃避行」の枠組みに、新たなるヴィヴィッドな感性と即興性、そして意識的な「作家主義」を注ぎ込んだ作品と位置付けるのが妥当ではないか。
それに、自然光の下でのロケーション主体の撮影や、手持ちカメラ、ノーメイク、即興演出、リアルなダイアローグ、ジャンプカットなどの諸々の「新手法」は、当時はそれこそ誰しもがぶっ飛ぶくらい斬新だったかもしれないが、いずれも、その後普遍化して“当たり前”になったやりくちばかりだ。つまり、われわれ今の視聴者にはむしろ「違和感がない」。
マーシャル・ソラールのジャズの小粋な使い方などは、60年代以降の気の利いたアクション映画やサスペンス映画の「お手本」みたいな感じで、ちっとも難解だったりとっつきにくかったりはしない。
全体に満ち溢れる、「動き」の気配と躍動感、切れの良い音楽、魅力的な俳優と女優のしぐさや立ち姿は、間違いなく観客を楽しませるものであり、バリバリに「エンタメ」している。
現代人からすれば、他の50年代、60年代の古臭い映画より、よっぽど「今に通ずる普通の感覚の延長で」楽しめる映画だといっていいかもしれない。
お話は比較的、単純だ。
無軌道な青年が、米国人ジャーナリストの女性に会いにいくために、いつものように車をパクってパリに向かうのだが、途中でスピード違反でポリ公に目を付けられ、職質されかかったので射殺する。
青年はパリで元カノの金をネコババして女に会いに行くが、新聞ではお尋ね者として指名手配されている。ふたりは再会し、デートするが、官憲の影は間近に迫っていた。
逃避行、一夜の情事。その末に女が下した決断は、「密告」だった……。
もともとはトリュフォーが自身のデビュー作として温めていた企画で、1952年に起きたほぼ同内容の実在の事件「ミシェル・ボルタイユ事件」を題材にとっている。トリュフォーは結局プロデューサーの同意が得られず、先に撮った『大人は判ってくれない』(59)でデビューを果たしていた。ゴダールはぜひこの企画を譲ってくれと懇願し、親友の許可を得た彼は、トリュフォーのシノプシスをもとにさっそく脚本を書き上げたのだった。
僕個人にとって、『勝手にしやがれ』が達成した最大の功績というのは、主演ふたりの魅力を最大限に引き出したことにあるのではないかという気がしている。
すなわち、従来の映画では、役がまずあって、それに合わせて俳優が演技をした。あるいはその逆で、まずスター俳優がいて、それに合った役があてがわれた。
ところが、『勝手にしやがれ』において、その「後先」は不分明だ。
本作における、ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグは、あたかも最初からこのフィルムのなかにいたかのように自然にふるまっている。そのうえで、ちょっとしたしぐさや立ち姿、目線の動かし方や歩き方といった日常の何気ない所作から、途方もない魅力と吸引力を発している。
彼らはミシェルとパトリシアでしかないのだけれど、同時にベルモンドとセバーグでもある。
ここでのベルモンドとセバーグは、役を生きながら、同時に、本人そのものであるかのように生きているのだ。
なぜか。
それは、ゴダールが「役」に俳優を当てはめず、俳優そのものの資質や佇まいに、役を「引き寄せて」演出したからだ。その場で実際に会って感じたベルモンド個人の魅力、セバーグ個人の魅力を、貪欲に「役に取り込み、役の一部として同化させた」からこそ、本作の二人は「奇跡的なかっこよさ」を身にまとうことになったのだ。
ゴダールの用いた「即興演出」「自然光撮影」「手持ちカメラ」「ロケ」といった新手法は、「そのため」の手段として採用された技法だ。
役者独自の魅力を見逃さないこと。それをヴィヴィッドにフィルム上に切り取って見せること。フレキシブルに役者に合わせて役を改変すること。
その「対応性」を高めるための手段が、演出における即興性であり、リアリティを付与する撮影方法だった。
それから、もう一点。
われわれは、ゴダールの名前、あるいは『勝手にしやがれ』のタイトルを聞くと、つい反射的に「ヌーヴェル・ヴァーグ」と直接的に結び付けて想起しがちだ。
実際に『勝手にしやがれ』がヌーヴェル・ヴァーグ初期の輝ける結実であることは、もちろん論を俟たない。
だが、こうやって久方ぶりに観直してみると、『勝手にしやがれ』が、題材選択においても、キャラクター造形においても、撮影技法においても、「フィルム・ノワール」の延長上にある映画だということを改めて痛感させられる。
それも、フランスによって変容させられた50年代のフレンチ・ノワールではなく、その大本にあるアメリカン・ノワールからの直摸の部分が大きい(ここ数年、シネマヴェーラでフィルム・ノワールをお勉強がてら見まくって、だいぶ脳内比較ができるようになった)。
何よりまず、本作は「ファム・ファタル(運命の女)」に狂わされる男の転落人生を描いた、典型的なノワール・プロットを採る。
試みに、Wikiのフィルム・ノワールの稿を見ると、ノワールの典型的な特徴としてあげられているのは、以下の通りである。
舞台設定(現代の大都市)
視覚的スタイル(コントラストを強め陰影を強調した画面)
テーマ(犯罪、詐欺、離別、精神疾患など)
登場人物の性格(ハードボイルドな男性主人公、謎めいた女性)
物語手法(時系列を複雑に行き来する構成、説明省略の多用など)
全体的なムード(社会に対するシニシズムや憎悪、閉塞感)
いかがだろうか。まさに『勝手にしやがれ』を説明しているかのような文章ではないか。
(まあ、本作では上記「シニシズムや憎悪、閉塞感」を超えて、ある種の「ニヒリズム」の領域に達しているのが、真に「新しい」といえるのだろうが。)
自然光の採用や、ロケによる撮影といった技法も、もともとは40年代~50年代のアメリカン・フィルム・ノワールに端を発するものだ。
トリュフォーも、ゴダールも、もともとセリ・ノワール(フランスで出されていたアメリカやイギリスの犯罪小説中心の叢書)の熱烈な愛読者であり、幾度も映画の題材に採っている(とくにトリュフォーが繰りかえしアイリッシュ原作を採用していたのが印象深い)。クロード・シャブロルなんか、たぶん撮った映画の半分くらいはミステリー映画だったくらいの推理小説好きだ。要するに、ヌーヴェル・ヴァーグの担い手にとっては、大きな霊感源のひとつが、フィルム・ノワールであり、ノワール小説だったのだ。
そもそも、『勝手にしやがれ』は、冒頭の献辞において、アメリカの低予算映画専門スタジオだった、モノグラム・ピクチャーズに捧げられた映画だ。
作中で登場・引用される映画群も、ロバート・アルドリッチの『地獄への秒読み』(59)、リチャード・クワインの『殺人者はバッヂをつけていた』(54)、オットー・プレミンジャーの『疑惑の渦巻』(49)、同『歩道の終わる所』(50)、ジョン・ヒューストンの『マルタの鷹』(41)など、総じてアメリカのフィルム・ノワールのプチ映画史を形成している。
ジャン・ポール・ベルモンド演じるミシェルの葉巻を用いたキャラクター付け自体、ハンフリー・ボガードを祖型としたものだ。
すなわち、「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、「フィルム・ノワール」の「分流」――あるいは、フレンチ・ノワールとは別の形での(より本質的で批評的な形での)受容から始まった「新運動」だったのではないか、というのが僕の問題提起である。
このテーマは、二週間後にもう一度柏まで行って観る予定の『気狂いピエロ』に直接的に引き継がれ、そこでは原作であるライオネル・ホワイトによる小説版との比較が、きわめて重要になってくるはずだ。
ー ー ー ー
にしても、この僕がよりによって、ゴダール特集上映なんかに足を運ぶなんてなあ、と思うと、ちょっと面はゆくなるし、なんだか気恥ずかしい。
大昔、まだ大学生だった僕にとって、ゴダールはある種の「仮想敵」だった。
より正確にいうと、「ゴダールを絶賛するような手合い」を、勝手に敵認定して猛烈にイラついていたのだった。
今から考えるとお恥ずかしいかぎりだが、当時の僕は、映画の本道は娯楽にあると信じ、客を楽しませることに腐心している映画こそ評価されるべきだと本気で考えていたから、藝大に入れなかった私立美大生あたりが「やっぱゴダールだよねぇ」みたいなことを言ってると勝手に妄想し、反吐が出るぜ、こいつら絶対いつか滅ぼしてやると過剰反応し、レオーネやペキンパーやデ・パルマを偏愛し、「秘宝」的な映画観に大きな影響を受ける一方で、オナニズムと承認欲求に毒されている(と僕が独断で決めつけた)難解な「ゲージュツ」映画を、ことごとく嫌悪していたわけだ。
振り返ってみると、あれも若さゆえの「潔癖主義」だったんだろうな、と。
なんか、柄谷やら蓮實やら浅田やらデリダやらラカンやらフーコーやら、「当世流行りの難解な言説&芸術批評」を、さもしたり顔で「わかってるか」のように語る一部のスノッブ連中が、とにかく憎くて憎くてたまらなかったのだ。その前提には「俺がまったく何言ってるのかわからないのに、なんだよそれ! わかるやつがいるなんて信じたくないよ!」というやっかみと羨望があっただろうし、恥ずかしげもなく「難しいことを読み解いてる自分」を誇示できるメンタルの強さが信じられないというのもあった。
でも、時を経て、そのうち思うようになった。
「ちょっと待て。ゴダールにせよ、ニューアカにせよ、世間でしっかりヒットしてブームになっている時点で、それはもう十分『エンタメ』としても成功してると言えるんじゃないか?」
「たとえ難解でも独善的でも意味不明でも、一定層のスノッブを刺激して集客して彼らを良い気持ちにさせているのだとすれば、それはそれで立派な『娯楽映画』であり、お金儲けの正しい『エクスプロイテーション』ではないのか?」
この視点に気づいた瞬間に、僕のなかで「ゴダール・コンプレックス」は雪解けを迎え、ゴダール映画もまた、豊穣なるエンタメ映画の海へと還っていたのだった。
逆に最近は思う。
自分が若かったときにあれだけ鼻に付き嫌悪した、「難解さへの憧憬」という若者独特の背伸びしたカルチャーが、いまや恐ろしいことに、日に日に廃れつつあるのではないか?
ネットやSNSの「わかりやすさ」にスポイルされ、「三行」「終了」「論破」といった脳停止ワードに精神を毒された連中には、歯ごたえがあって、ちょっとやそっとでは読み解けないような評論をもっと読ませたり、一見しただけでは意味すらつかめないような映画をもっと観させたりしたほうがいいんじゃないのか?
というわけで、最近の僕はゴダール容認派であるどころか、大いに推進派へと鞍替えした次第。
みんな、もっとゴダール観ようぜ!